塗籠日記その弐

とりふねです。ときどき歌います。https://www.youtube.com/user/torifuneameno 堀江敏幸・宮城谷昌光が好きです。

響きと怒り ウィリアム・フォークナー ~いくすじもの時間の奔流としての声

いくすじもの時間の奔流としての声

ウィリアム・フォークナー
アブサロム、アブサロム!篠田一士
河出書房新社池澤夏樹=個人編集 世界文学全集
響きと怒り』 (上) (下) 平石 貴樹 新納 卓也 訳 岩波文庫


 中学時代に、美術館の絵を見てレポートを書くという課題が出されたことがありました。そのときに、つくづくと考えたのが、絵を「見る」とはどういうことなのか、絵は「見る」ことができるのか、ということです。わけがわかりませんね。私が感じたのは、一枚の絵を見るとき、そのすべて(全体)をいちどきに「見る=把捉する」ことができない、ということでした。「見る」行為には時間が伴っている。順番に細部を見ていくときはもちろんのこと、遠くから全体を眺めていると思っているときにも、決して全体を捉えられているわけではない、断片的に捉えられた瞬間の像が、頭の中で不完全な形で再構成され、ぼんやりとした幻像を結ぶといった具合。でもそれは一つの絵画作品として自分の中にとどまるという不思議。
 この問題は、音楽になるとますます顕著になります。今、膝の上にノートパソコンを載せ、youtubeでサティのグノシエンヌなどをBGMに流しながらこの原稿を書いていますが、現れては減衰する音の羅列を耳が受け止めているだけです。頭の中でそれを再生するときにも全体を一瞬で再生することはできないのですが、それにもかかわらずそれはサティのグノシエンヌとして、あるひとまとまりの「像(聴像?)」となる。実際の音を聴いているときにもその音の前後に記憶の中の音がたちのぼりまとわりついている。(ついでにドラマ『熱海の捜査官』の映像がよぎったりする。)
 問題は「時間(と意識)」です。ここで「時間」はいったいどんな振る舞いをしているのでしょうか。ベルグソンでも読めば何か少しはわかるのかしら。(積読未読。)

 閑話休題
 この夏休み、たいへん久しぶりにウィリアム・フォークナーの作品に手を伸ばしました。読んだのは、池澤夏樹個人編集文学全集の『アブサロム、アブサロム!』でした。フォークナーはずいぶん昔に『八月の光』を読み、好きだと思った小説家でしたが、長らく触れていませんでした。『アブサロム、アブサロム!』は、ウィキペディアでは「南部ゴシック小説」と紹介されています。フォークナーが創り出し、彼の作品の多くがそこで展開した架空の土地、ヨクナパトーファ郡を舞台にした大作で、トマス・サトペンという流れ者を中心に生きられた複数の人生を、複数のナラティヴ(語り)によって描き出してゆく、組み立てからしてスリリングな小説でした。複数の語りによって前後し絡まり合う時間の流れは、そのまま人間の生の激しい奔流です。(奔流のとぐろを巻く長大さに何度も溺れかけます。つまり、話がわからなくなる。)

 『アブサロム、アブサロム!』をなんとか(這う這うの体で)読み終えた「やってやった感」から、続けて同じフォークナーのヨクナパトーファ・サーガの名作『響きと怒り』を読むことにしました。『アブサロム』を読んでいる時から、もうこれを読みたいという気持ちでいたので。『アブサロム』に出てくる最後の語り手(厳密には最後の三人称の部分の登場人物として語る。)クウェンティン・コンプソンが、『響きと怒り』の主人公で、その行く末を『アブサロム』の巻末やウィキで知ってしまったので、彼の人生の物語を読みたくなったというわけです。

 『響きと怒り』は『アブサロム』より前、1929年に発表された小説です。タイトルはウィリアム・シェイクスピアの戯曲『マクベス』第5幕第5場にある、マクベスの独白から採られています。

Told by an idiot, full of sound and fury,
Signifying nothing
白痴のしゃべる物語、たけり狂ううめき声ばかり、
筋の通った意味などない。

 主要人物はアメリカ合衆国南部の特権階級で、崩壊しつつあるコンプソン家の4人の兄弟です。

クウェンティン・コンプソン3世 (1890年–1910年)
キャンダス・"キャディ"・コンプソン (1892年–?)
ジェイソン・コンプソン4世 (1894年–?)
ベンジャミン・("ベンジー"、生まれたときはモーリー)・コンプソン (1895年–?)

 作品は、第1部「1928年4月7日」第2部「1910年6月2日」第3部「1928年4月6日」第4部「1928年4月8日」で、それぞれ語り手を変えて組み立てられています。
 
 第1部「1928年4月7日」、タイトルの由来である『マクベス』中の idiot にあたる知的障害のある末弟ベンジーの語りで作品ははじまります。idiot=ベンジーの語りは、まさにfull of sound and fury, Signifying nothingで、ある種、幼児のつぶやきのようでもあり、読者にわかりやすい事実の流れを伝えてはくれません。ある時間のことが描かれているかと思えば突然過去の時間に跳んだり、何かについて語っていると思われても、それがとても感覚的で掴めなかったりするのです。しかし、そこには確実にある出来事があり、その出来事のいくつかは、重大でショッキングな出来事であって、それがベンジーの心と存在を激しく動かしている、そのことは痛切に伝わってきます。不安、懼れ、悲しみ…人間の原始的で根源的な感情のほとばしりに触れるようです。

お父さんがドア口に黒くなって立ち、それからドアがまたまっ暗になった。キャディはボクを抱き知め、ボクたちはみんなの音を聞くことができ、それからなにかの音が聞こえてにおいをかぐことができた。それから窓が見え、そこでは木たちがざわざわいっていた。それから暗やみがなめらかで明るい模様になって動きだし、いつも眠るときのとおりで、さらにはキャディがおまえは眠っていたのよ、というときのとおりだった。(第1部のラスト。)

 第2部「1910年6月2日」では、コンプソン家の長兄でハーバード大学生のクエンティンの語りによって、その自死(川に身を投げる)に至る彷徨が、彼の意識のたゆたいとともに描かれます。

 窓枠の影がカーテンに映ると、七時と八時の間だとわかり、すると僕はふたたび時間の中にいて時計の音が聞こえていた。それはお祖父さんの懐中時計で、お父さんはそれを僕にくれたとき、すべての希望と欲望の墓碑をお前に贈ろう、と言っていた。人間の経験というものが所詮、お祖父さんやひいお祖父さんそれぞれの渇望を満たしはしなかったのと同様、お前の渇望だって満たしはしない、したがって経験には意味などない、という帰謬法の論理ってやつを、お前がこれを使って身につけるのは、まさに痛々しいほどうってつけな話じゃないか。これをお前に送るのは時間を忘れずにいるためじゃなくて、たまにはしばし時間を忘れて、時間を征服しようなどという試みに命をすり切らさないようにする、そのためなのだよなぜならどんな戦いにも勝利なんてものはないのだからね、とお父さんは言った。
 
 第2部冒頭で、父から渡された祖父の時計は、クエンティンを追い立てるように音をたてて彼の最後の時を刻みはじめ、それが贈られた時の虚無的な父の言葉は、クエンティンの暗い運命、すり切れていく生への予言(または呪言)のようです。そしてこの冒頭部分から、「妹」という語がときおり泡のように浮かび上がります。フランチェスコの逸話が引かれ、そこで「死」は「幼き妹」と呼ばれます。クエンティンの心を追いつめてゆくのは、彼の思いに反して道徳的に逸脱してゆく妹キャディの存在です。妹の存在への固執の根底には激しく暗い渇望があります。

 その先にあるのが地獄だけだったらいいのに。清らかな炎に焼かれて僕たちふたりは死ぬ以上のことになって。そうなればおまえには僕だけしかいなくて そうなれば僕だけで 二人で清らかな炎のむこうの 指弾と恐怖のただ中で

 生きている「成熟した妹」と共にはいられなかったクエンティンは、替わりに「幼き妹」に寄り添うことを選んだのでしょうか。

                             ※第3部第4部は略。

 ベンジーの語りの言葉のふしぎなほどの確かさ、クエンティンの、彷徨する最期の肉体のリアリティと、眩暈をさそう抑鬱的な意識の錯綜。唾棄すべき部分がありながらも、狭い場所で這いつくばって生きる有様に同情を禁じ得ないジェイソンの生。異なる速度と色の三つの声の奔流が絡まりもつれて、作品を読んでいるさなかにも、読み終わった直後も、しばらく時が経ったあとでも、一つの直線には収斂不可能な複雑な「時間」の相貌が浮かび上がってくるすさまじい作品です。そして結論。フォークナーはとても好きな作家です。

 追伸。『響きと怒り』読了後、すぐにヨクナパトーファ・サーガの『熊』その他を読みました。自然と対峙する人間が描かれた傑作でした。