塗籠日記その弐

とりふねです。ときどき歌います。https://www.youtube.com/user/torifuneameno 堀江敏幸・宮城谷昌光が好きです。

ブログの視線 透き見のこと

ものを書くときに読み手について思わずにはいられないだろう。アルファブロガーというような人々は、もう、おおやけに出版される本を書くのとかわりないだろうが、ほとんど日記帳に準ずる覚えのようなかたちで書いてはいても、ほんの少しだけの読み手のことを忘れ去って書くことはないのだ。
1わたしが書いていることを知っている人、知らせた人。
2ウェブ上での知人。顔も背景も知らない。
3ウェブ上で知り合い、その後顔見知りになった人。
もちろん、
4検索などでおとずれた不特定多数の見知らぬ人々。



これらの人々にくわえ、というか、これらの人々とはちょっと違うレヴェルで問題になるのが、
5たいへん近しくしているのだけれど、ここに書いていることは告げておらず、その人が検索などの作業でここにたどり着き、話題にされていることでアイデンティファイし、わたしがそのような可能性があることを知りながら、知らぬふりをし、向こうもそのことに触れない場合である。



知っているかもしれない。知らないかもしれない。知っているとしたら、その視線はある種の透き見、窃視である。このとき、ブログのテクストは「見られる」「身体」に近い。見られているほうは、その窃視線の存在を半ば信じ、または期待しながら書くのである。



しばらくのあいだ、ここで書いたことと現実での会話の材料が多く重なることを避けてきたのだが、そうすると、それほどたっぷりした人生を生きていないために、書くにあたって材料がなくなる。なら、ブログをやめてしまえという話だが、ときに知る知らぬ読み手を意識して書くのは、ボケ防止の脳トレとしても、恐ろしい人生の慰めまたは退屈しのぎとしても捨てがたい。



そんなわけで、このごろは、ウェブとリアルの話題を平気でシンクロさせている。ちょっとばかりデインジャラスでスリリングである。老い先短いんだから、スリリングな状況は生命感を横溢させるのによいのである。ただ心配なのは、もしそのつもりなく透き見してしまった人がいて(いや、でも、まったく「そのつもり」のない透き見なんてあるのだろうか。)、そのことを私に言えなかったら、気持ち悪くなったりしやしないか、ということだけである。大事にしたい人だけに気の毒であるし、透き見がちょっとした困惑以上のものをもたらしたら、それは困るのだ。スリリングなどとふざけていられないのだ。



よやよや、透垣のむこうにたれかある。黄泉におりたイザナミになったような気分もする。のぞき見るのはタブー。いや、見てもいいけど。あまり気にしないで「見逃し」てくださいね。