塗籠日記その弐

とりふねです。ときどき歌います。https://www.youtube.com/user/torifuneameno 堀江敏幸・宮城谷昌光が好きです。

「魔法のオレンジの木 ハイチの民話」

ダイアン・ウォルクスタイン採話 清水真砂子訳 岩波書店
この本では、ただ民話が並べられているのではありません。どんな語り手によって、どんな状況で語られたか、とか、そのお話に関わるハイチの習俗などが、添えられているのです。それによって、ひとつひとつのお話は、よりリアルに、また奥行きをもって、わたしたちの前にたちあがってきます。

★ まえがき
 ここでは、ハイチの民話がどうやって語られるかが紹介されています。語り手は、集まった人に「クリーク?」と声をかけ、その人から話が聞きたければ、人々は「クラック!」と答えます。よし、やってくれ、という合図です。潤色は許されるけれど、話を混同したり、忘れたりすると、聞き手は口を挟むし、話術が下手なら文句も言う、物語の中で歌が始まれば、聞き手は語り手と一緒になって歌うそうです。(楽しそう!! こういうの大好き。)語り手は一人の人間に限定されず、場合によっては、競争にもなります。ここでの物語は書かれたものとは違い、「場」によって生成される不思議ないきもののようですね。
 語り手の中には語りを職業とする人々、物語を語って聞かせては、かわりに食べ物と宿とを提供されて歩く専門の語り部(メトル・コント)がいます。18世紀には、彼らはプランテーションからプランテーションへと旅を続け、祭りとか通夜の席によばれて話を乞われたそうです。子どもが死んだときにはやさしい短い話を、大物の死の席では故人の偉業をたたえる、長い話をしたそうです。なんておもしろい!!
 というのも、ちょうど先日「神々の闘争 折口信夫論」という本を読み終わったばかりで、民俗学者折口信夫が日本の古代の国の成り立ちや文学の成り立ちを考える上で重要なものとしていた「ホカヒビト」の観念が、頭の中にとどまっていたからです。「ホカヒビト(ホガイビト)」とは、人の門戸に立ち、寿言(ホガイゴト)を唱えて回る芸能民です(広辞苑)。万葉集にも出てきます。ハイチのメトル・コントにそっくりです。ヨーロッパにもロマの民(ジプシー)がいます。どこの国、いつの時代にも、このような人々がいて、人々の暮らしに特別な時間と空間をもたらすようです。


★ 「魔法のオレンジの木」
 このタイトルを見ただけで、わくわくします。いろいろな色や香りがことばからあふれてきます。この本の表紙絵もタイトルのイメージと同様、にぎやかな精霊のざわめきが感じられるものです。短い27の話が採られていますが、お話の一つ一つに、それが語られたときの状況や、語り手の人物像、話の中に出てくるハイチの習俗などが記されていて、「語り物」「口承」であるお話の雰囲気が、丁寧に伝えられます。(最後にはいくつかの歌の楽譜も。)このお話では、はじめに、子どもが生まれたときにへその緒を乾燥させて埋め、その上に果物の種を一粒まいておく、というおもしろい風習を紹介しています。芽をだした木は子どもの財産となり、守護霊とみなされ、その育ち方が悪いときは子どもによくないことが起こる前兆と考えるそうです。(日本にも女の子が生まれたときに植えた木を、嫁入りのときに伐って、箪笥にしたりしますね。)
 内容はシンデレラ系のもので、ひどい継母が懲らしめられる話。オレンジを盗み食いした女の子が継母に脅されて森に逃げ込み、そこでこぼれたオレンジの種がすぐに大きくなって最後には継母もろともくだけ散る。残された種はまた芽を出し、娘は今でも土曜日ごとに市場でオレンジを売っているという。「オレンジの木、大きく大きくそだてそだて かあさんは、ほんとのかあさんじゃない」という娘の歌とともにぐんぐん伸びたり、また縮んだりするオレンジの生命感が魅力です。「むかしむかし」のお話ではなく、最後に話が現在形になっているところに強いインパクトがあります。


★ 「ブキー、コーキーオコーを踊る」
 三度の飯より踊りの大好きなだんなが、毎晩でも踊りの名手を招いて踊らせたい、でもお金がかかるということで、自分の考えたコーキーオコーの踊りを間違えず踊れたものには賞金を出す、と触れを出す。欲深マリスがだんなの踊りを盗み見て、太っちょで不器用で人のいいブキーに踊りをしこみ、最後には賞金をブキーからまきあげる。ここに出てくる欲深な「マリス」と人のいい「ブキー」はきっと落語の熊さん八つぁんみたいなキャラクターなのでしょう。 最後が勧善懲悪にはならず、まんまと賞金を手にしたマリスが歌いながら闇の中に去るところが愉快です。サンバダンスのところでは踊る語り手を囲み、聴衆も輪になって踊るのだそうです。楽しそうですね。


★ 「歌う骨」
 これも継母話。男が三度目の結婚で選んだのは性悪女。継母が弟を殴り殺し、切り刻んで父親に食べさせる。投げられた骨が歌った歌を兄が聞き、父親は弟の骨だとは気づかずに大だんなのところへもっていく。大だんなは歌う骨の歌の謎をとき、継母はフライパンにのせられてとける。その油を弟の骨に塗ると弟の体がだんだんにもどって生き返る。
 おそろしい話ではありますが、「歌う骨」という、モチーフというか、イメージというか、それがまず好きです。人だったもの、人ならざるものが歌って何かを告げるというイメージにひかれます。弟の体がもどるところは、長い記述ではないのになんだかリアルです。ありえないことなのに生々しい。ガルシア・マルケス(コロンビア)の小説などにも通じるところがあります。


★ 「テイザン」
 採話者のウォルクスタインさんが、ハイチにいるときにもっともよく耳にしたタイトルが、「魔法のオレンジの木」と、この「テイザン」だったそうです。彼女は、話を聞くたびに、声を合わせて歌ったのに、あとになって物語を思い起こそうとすると、ちゃんとつかめていなくて、心にうかぶのは「テイザン、わがともよ」という訴えかけるようなメロディーだけだったと言っています。録音したものも、ひとつひとつとってみると十分ではなく、だからといって「テイザン」抜きのハイチの民話集など考えられないと思っていたそうです。ところがしばらくたって、同じ分野の作家である友人に乞われるままに話をすると、「すばらしいじゃないか、これはどうあっても本に入れるべきだよ。今話したままの形で」と言われるのです。語られてゆく話の不思議さや難しさや魅力が、このエピソードに集約されているような気がします。採話者は言います。「もしもハイチの民話の中で、どの話がいちばん親しみやすいかと質問されたら、答えはおそらく再話者(ここは「再話者」)の受け止め方、感受性のいかんによってずいぶん変わってくる。ハイチのもっともよく知られる民話でさえ、まずはまるごと受けとめること、中身の分析はそのあとです。」
 泉に水を汲みにきたベリーナが指輪を落としてしまうが、金銀にきらめく魚があらわれて、指輪をとりもどしてくれる。テイザンと名乗るこの魚は、ベリーナのために泉のいちばん深いところの水を汲んできてくれる。ベリーナが魚に歌いかけるのを見た弟が、母親にそれを告げると、泉の悪魔が娘と交わっていると考えた両親は、テイザンをおびき出して、なたで殺す。テイザンの予言により、テイザンの死を知ったベリーナは歌いながら泣き、泣きながら歌い、やがてやわらかくなった地面に吸い込まれてゆく。地上に残ったのはベリーナの髪の毛だけだった、
 「テイザン」は、この本の中でもとりわけ美しいお話。採話者がひかれたのがよくわかります。テイザンは悪魔だったのか、よい精霊だったのか。いろいろなことがはっきりしないのですが、ベリーナとテイザンの関係は、まるで激しい恋のようです。甘く息苦しいような思いを呼び起こすお話です。

http://homepage2.nifty.com/torifune/mahounoorange.htm
魔法のオレンジの木―ハイチの民話