塗籠日記その弐

とりふねです。ときどき歌います。https://www.youtube.com/user/torifuneameno 堀江敏幸・宮城谷昌光が好きです。

携帯電話は「みっともない」からやめておく

朝日新聞書評欄村上陽一郎著「やりなおし教養講座 NTT出版ライブラリーレゾナント005」を鷲田清一先生が紹介していた。その中で「自分の中にきちんとした規矩を持っていて、そこからはみ出したことはしないぞ…」「『みっともない』から、『自分に恥ずかしい』からやめておきましょうという感覚…」「『これをやるならやらないほうがまし』という感覚」とあり、そこだよなーと思った。


「教養」とはまったくレベルのちがう話なのだが、わたしは携帯電話を持っていない。(パソコンはいじるが。)まず、電話そのものが、そう好きではない。できればかけたくないし、かかってくるのも少しこわい。(病的にではないが。)必要性ということでも、あまり切迫していない。携帯をあたりまえに出して使えるような職場でもないし。(ひとり、使わないにしろ腰からぶらさげている人がいて、こらこらきびだんごでも提げておけ、といいたくなる。)友人と会うときは事前に約束しておけばすむ。そして、今のところもっとも大きな理由は、携帯を使っている姿が、人間の姿として(わたしには)美しく見えないということだ。周囲に「閉じて」いながら、あまりにも「無防備」でどこかしら「貧しい」感じがするのだ。一度持ってしまったら、あの体勢はさけられないだろう。(PCの前の姿も美しくないが、これは家で人に隠れてやっているということで、許容。)「いつでも」「どこでも」というのが、だいじなものをとっぱらってしまった感じもする。「じっと堪える」「約束して待つ」が失われる。そんなわけで、(公衆電話も激減しているし)あと何年つづくかわからないが、可能な限り持たないでいこう。必要な人はいるだろうし、持ちたい人は持っていいけど、持たない人も生きていられる社会であってほしいな。(あっ、ブログって携帯電話でも読めるんですか。)


これはまた別な話だが、書評の最後に、「ヒューマニティ」の語源がラテン語「フムス」で、「腐植土」という意味がある、と書かれていて、へぇーだった。薔薇は、よく掘りおこした土にたっぷりの「腐葉土」と節度ある量の「牛糞」をよく混ぜ、そこに植えるとたいがい大丈夫、ということはものぐさ園芸で体験していたので。(このとき、薔薇の根に直接牛糞がふれてはならない。)