塗籠日記その弐

とりふねです。ときどき歌います。https://www.youtube.com/user/torifuneameno 堀江敏幸・宮城谷昌光が好きです。

「ちびくろ・さんぼ」

ちびくろ・さんぼ5月15日朝日新聞の「ベストセラー快読」で「ちびくろ・さんぼ」の復刊が話題になっていた。まとめのところでは、復刊された本にかつての絶版問題、論争への言及がなかったことが指摘され、「なつかしい」だけでいいんだろうか、という疑問が投げかけられていた。


岩波書店が絶版したあと、2冊のちびくろ・さんぼリメイク本が出たことは記憶に新しい。一冊はアフリカ系黒人の家族を、差別的な表現でなく「リアルに」描いたもの。もう一冊は、「ちびくろ・さんぽ」「ぼ」でなく「ぽ」として、犬を主人公にしてしまったものだった。オリジナルのさんぼが大好きで何十回となくあの本を読んだわたしには「そんなことしても、なんだかなー」だった。自分がアフリカ系黒人になってみないと、その本から感じる屈辱感、非差別感はわからないのだろうが、子どもの頃のわたしは、少なくともあれをリアルなアフリカ系黒人の人たちの生活だと考えて読んでいたわけではない。子どもってそんなに馬鹿じゃないよね。で、復刊の記事を読みながら(復刊本には虎バターの話だけで、もうひとつの、さんぼが鷲につれられていっちゃうエピソードはないらしい、あれもよかったのに。)わたしがあの物語にあんなに引きつけられたのはどういうことだったのか、今回よーく考えてみた。あれは、わたしにとっては、ひとつの「神話」だったのだ。たしかにそういうおもしろさ、そういう魅力だった。「神話」はいつも「子ども」をとらえて離さない。単純な線、明快な色彩、家族のアーキタイプ、虎や鷲など、自然のスピリットとの「交換」。シンボリックなもの。そんなものがわたしを引きつけていたと思う。「差別」と言われると困惑する。そういう文脈と全くちがうところで読んでいたから。アフリカ系黒人でなく、アジア人、日本人のかたちをとっていたらどうだったんだろう…。