あけましておめでとうございます(ウチダ先生からのお年玉についての付記)
2005は後半めでたからぬことがあり、2006もその始末が続くわけだが、
出来事は、なにかあるものが到来する事実に還元されない。今夜雨が降るかもしれないし、降らないかもしれないが、こうしたことは絶対的出来事たりえないだろう。なぜなら、わたしが雨を雨だと知ってさえいれば、その限りにおいて、それがなんであるか、つまり降ってきたものが雨であることが分かっているからである。また、その場合、これは絶対的に他なる単独性ではない。そこに到来するものは、到来者ではないのである。
到来者は、絶対的に他なるものでなければならない。自分がその相手を待ってはいないと予期するような他者でなければならない。わたしはその他者を待っていない。この待期は、ひとつの非-待期からできている。
J・デリダ テレビのエコーグラフィー デリダ〈哲学〉を語る
待ってはいない到来者。上の本は難しくてさっぱりぷぅだが、引用箇所だけはただただ体験的に理解できる。デリダ先生のお言葉をいただいて、今年もやり過ごす。ふかっちゃん(深津絵里)が三蔵法師だから、それを楽しみにがんばる。
http://blog.tatsuru.com/archives/001465.php
付記:ウチダ先生がお年玉をくださったが、絶対的に他なる未来からしばしば不意打ちをくらっていると、他者たる未来のお面をかぶってchez-moiを立て直すことができないほど土台が揺らいじゃうってか地盤が緩んじゃうこともあるんですよぅ。正月の静けさのかけがえのなさが、流れに浮かぶうたかたのごとくに虚無感を誘うってことがあるわけで。