塗籠日記その弐

とりふねです。ときどき歌います。https://www.youtube.com/user/torifuneameno 堀江敏幸・宮城谷昌光が好きです。

日照時間は

日照時間はみじかくなりつつあるのに。溜息は下におちる。気分は「人をも身をも」である。そういう気分をまだまだ味わい尽くす気でいる。ガチで「逢う」てはいないのだけれど。我物語すべからましかば。


あるテレビ番組のテキストを読み終えて、さて、つんである本の一冊にとりかかった。紀伊國屋書店紀伊國屋の本コーナーで見つけた。以前読んでおもしろかった西成彦ラフカディオ・ハーンの本も紀伊國屋だったな。おもしろいのあるよね。原題Une saison chez Lacan。著者の詳しいことがウェブでみてもわからない。帯には「1969年、パリ。《わたし》は精神分析ラカンのもとをたずねた。ひとりの作家が、自分の10年に渡る分析体験をものがたる。「小説のように」読める、最良のラカン入門書。」とある。書き手は作家らしいのだが、検索をかけてもおぼつかない。ものすごい直訳文体。日本語としては破綻しかかっているが、下手な意訳よりいっそ潔いし意味もこちらにざくっと入る。筆のすすみは小説の体だが実話らしい。いろいろとおもしろいところがある。たとえば、

文化とは、他者の知能の記憶だ。若干の例外的消化器官を除けば、文化は、文化をしか生まない。ひとつの言論の上に、またひとつの言論。無限に続く屋上屋。それは、驚きのない法則の領分で展開される。法則を否むこと、法則と戦うこと、あるいは法則を受け入れること、いずれの場合もそれはなおも、法則を認めることだ。


索引は、文化の領分のものだ。そして、文化は連続だ。創造は、その逆に、断絶だ。創造は、その出現の予見不能なディナミックの偶然にまかせて、自分に先行するシステムの残骸のうえに、自分に固有な法則を分泌する。思想の歴史の単調な父殺しは、そのことを証明している。それがゆえに創造は呪われている。


ヘーゲル弁証法の三つのモメントについて、レヴィ・ストロースの言葉が、わたしの耳になおも響いている。ー《テーゼ、反テーゼ、統合テーゼが大学の基礎だと了解した日、わたしは、大学を去った。》

とか、これに類する部分が、《わたし》なる人物がかなり危険な精神状態(ものっすごい過剰な感じと、ふっと死にからめとられる感じと。)からラカンに会う経緯を小説のように綴ったものにぽんぽんとはさまっていて、かなりひきつける。

ラカンのところで過ごした季節

ラカンのところで過ごした季節

これ、売れてないんだなー。まだ第一刷だ。