塗籠日記その弐

とりふねです。ときどき歌います。https://www.youtube.com/user/torifuneameno 堀江敏幸・宮城谷昌光が好きです。

内田樹さんのラジオと「忘れられた日本人」

http://blog.tatsuru.com/2008/12/30_1004.php
上のエントリで書かれていたNHKのラジオを聞いた。入会(いりあい)の話のところで(内田さんがいつも言われていることだろうが)、この時代、すぐに白か黒か決定、結果を要求する(メディアにもその科はあるとも)、時代は「拙速」であるいうことを話しておられた。10年20年と時間をかけて話し合いをつづけ知恵を出し合っていくということが本当は必要だと。またまた宮本常一の「忘れられた日本人」の「寄り合い」の章を思い出す。と書きながら。以前も似たようなことを書いていたのを思い出した。いもづる。こんなとき記憶力がないわたしには、はてなは便利だなあ。自分の日記を検索できるから。「他者と死者」を読んだ時だ。「前半の交話的コミュニケーション、タルムードの聖句の解釈において、論争の目的が「論争を終わらせないことにある」云々、また村上春樹の小説における到来する第三者としての「うなぎ」の存在、この辺りを読んでいて、せんだって読んだ宮本常一の「忘れられた日本人」の寄り合いの場面を思い出した。あの場における話し合いの作法。そしてまた宮本常一民俗学の作法を。2004.12」と書いてあった。もう一度その前に書いた感想も写しておく。自分用。

「忘れられた日本人」宮本常一 岩波文庫
友人に強く奨められて読む。さすが私の好きな岩波文庫第7位にランクされるだけのことはある。圧倒的な「書物」としての存在感。土佐の山中の乞食小屋に住む盲目の元ばくろうが語った「土佐源氏」の女性とのマグワイの数々もすごいが、(映画にしたらおもしろいだろうな)わたしがとても強くひきつけられたのは、冒頭「対馬にて」の「寄り合い」の方法だ。今のわれわれの国や組織の物事の決め方とは劇的に違っていてそれは感動的といってもいいほどだった。もちろん小さな共同体だから可能な方法だとも言えるのだろうが、一見雑談のようなその話し合いは、大勢の人間が何日も時間をかけて行う。協議は区長と地域組とのあいだをなんども往復し、時々に議題はうつりゆき、また元に戻り、多くの人がそれに関わる過去の体験を持ちより、やがてゆっくりとひとつの結論に収斂してゆく。強引な結論は決定後の齟齬を生む。小さな共同体においてそれは致命的なことだ。(国家や地球規模で言っても実はそれは致命的なはずだ。ただその齟齬をないものとして次に進んでゆくだけなのだ。)対馬の人々が自然にとってきた賢明な方法から「場のはたらき」ということを考え、「時が熟す」ということばを思った。また、その「時の熟す」のにじっと寄り添って、そこに隠された哲学とも呼ぶべきものをていねいに拾い上げた著者の精神の深さを感じた。素朴な食材だが滋味に富む食事を味わっていただいたような読後感である。とりふね 2004,8

そうそう、「市民社会の成熟(時間をかけた)」と言えば、先日朗読会でご一緒したユッキー氏も打ち上げで同じことを言っていたなあ。問題は「市民」の層が圧倒的に薄いということで、それを厚くすることが必要だけれど、それはいろんなことを少しずつやっていく中でしかできないって。そういえば「忘れられた日本人」を私に奨めてくれたのはユッキー氏だ。


ところで、番組の冒頭で内田さんを「哲学者」と紹介していた。あ、そうなのか、と思った。なんとなくそう思っていなかったので。中沢新一萌えだが、中沢さんが「哲学者」って書かれているのみても、え、そうなのかい? と思うことはある。

忘れられた日本人 (岩波文庫)

忘れられた日本人 (岩波文庫)