塗籠日記その弐

とりふねです。ときどき歌います。https://www.youtube.com/user/torifuneameno 堀江敏幸・宮城谷昌光が好きです。

悲劇=母 ジョルジュ・バタイユ

気持のよい文章なので引用しておく。お芝居をみるときは、こういうことを味わいたい。

悲劇=母

 ディオニュソスの森から古代ギリシアの円形劇場に至る流れ。生は、他の何にもまして、この流れにもとづいている。このことはただ語るだけではたらず、さらに宗教的な執着心をもって何度も反復してみる必要のあることなのだ。実際、人間の生は、悲劇的なものの現存から逃げる限り、卑劣で滑稽なものになる。逆に聖なる恐怖にかかわっている限り、真に人間的になるのだ。この逆説は、たしかに、あまりに偉大であって、主張するのが困難なことかもしれない。だがこの逆説は、血に劣らないほどの生の真実になっている。
 ディオニュソス神のための祭りは悲劇の見世物へ発展していったのだが、まさにディオニュソス神は陶酔とブドウ酒の神であるばかりでなく、理性の惑乱した神でもあった。この神の到来は、極度の喜びだけでなく、何もかも解体する苦痛と熱狂をもたらした。そしてこの神の狂気と不吉さときたらたいへんなもので、この神のあとについていった女たちは熱狂のなかで血まみれになり、自分の子供を生きたままむさぼり食べていたほどなのである。
(中略)
 逆に、いかなる点においても、演劇は、頭と天のウラノス的な世界に属してはいない。演劇は、腹部の世界に、深い大地の地獄的で母親的な世界に、地底の神々の暗い世界に、属している。人間の生は、母親の胎内の強迫観念からも、死の強迫観念からも、逃れられない。人間の生は、自分を産み出しまた自分が帰ってゆく湿った大地を否定していない限り、悲劇的なものに結びついている。最大の危機とは、暗い地底のことを、覚醒した人間たちの誕生によって引き裂かれた地底のことを忘却してしまうことだ。最大の危機とは、人間たちが眠りと悲劇=母の暗闇のなかでさまようのをやめて、有益な仕事に完全に隷従するようになってしまうことなのだ。(中略)地下の迷宮の暗闇のなかでこそ人は目的を理解するのだ。迷宮の暗闇のなかでは、死と生が、静寂と雷鳴のように、互いに引き裂きあっている。
(後略)
ジョルジュ・バタイユ「ランスの大聖堂」ちくま学芸文庫

ランスの大聖堂 (ちくま学芸文庫)

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