塗籠日記その弐

とりふねです。ときどき歌います。https://www.youtube.com/user/torifuneameno 堀江敏幸・宮城谷昌光が好きです。

ムーミン谷の冬 〜通過儀礼としての冬の目覚め トーベ・ヤンソン 山室静訳 講談社

ムーミン谷の冬 (ムーミン童話全集 5)

ムーミン谷の冬 (ムーミン童話全集 5)

彫刻家の娘

彫刻家の娘



ムーミン一家が11月から4月までの間冬眠しているムーミン屋敷。おなかにはどっさり松葉を詰め込んで。月の光がムーミントロールの顔を照らしたとたん今までついぞ起こらなかったことが起こる。ムーミントロールが目をさましてそれきり眠れなくなってしまったのだ。時計はとまりあらゆるものが11月のまま。
「世界中がどこかへいっちゃったよ。」叫んでもだれも起きてくれない。窓という窓は雪におおわれている。屋根裏のえんとつ掃除の引き戸から見たこともない冬の世界になげだされたムーミントロールは思う。「ぼくがねむっているあいだになにもかも死んでしまったんだ。」
雪の中で足跡をみつけておいかけるが誰の気配もなく、心の中のおそれがはっきりしてきて泣き声になる。


  
そんな中で出会ったおしゃまさんは口笛をふいていた。北風の国のオーロラの歌だ。
「あれがほんとにあるのか、あるように見えるだけなのか、あんた知ってる?」
「ものごとってものは、みんな、とてもあいまいなものよ。まさにそのことが、わたしを安心させるんだけれどもね。」
「ぼく、あれはたしかにあると思うな。」おしゃまさんは返事をしない。
どっさり林檎のなっていた果樹園は今は雪ばかり。水浴び小屋は何もかも夏と同じように見えるが不思議とどこかがちがっている。はずかしがりやで姿の見えないとんがりねずみたちが暮らしていた。
「ここはうちの水浴び小屋だぜ。」
「あんたの言うとおりかもしれないけど、それがまちがいかもしれなくてよ。そりゃ、夏には、なるほどこの小屋はあんたのパパのものでしょうさ。でも、冬にはこのおしゃまのものですからね。」


ムーミントロールにとって、夏の間自分のものだった、自分が所有していたと思っていた確かな世界は、すべて見知らぬものになっている。時ならぬ目覚めが、世界と自分との関係をご破算にした。再び世界との関係を結びなおし、自分の輪郭を取り戻すためには努力が必要だ。
「雪のことを話してくれない? ぼくは雪のことは、ちっとも知らないんだもの。」
「わたしだって、知らないわ。」とおしゃまさん。
「雪ってつめたいと思うでしょ。だけど、雪小屋をこしらえて住むと、ずいぶんあったかいのよ。雪って、白いと思うでしょ。ところが、ときにはピンク色に見えるし、また青い色になるときもあるわ。どんなものよりやわらかいかと思うと、石よりもかたくなるしさ。なにもかもたしかじゃないのね。」
おしゃまさんはわからないこと、たしかではないことをおそれない強さをもっている。それは世界を所有しようという態度とはちがうものだ。世界を自分の言葉の世界に取り込まず、わからないままに存在させ、その中で生きていく強度は、fairness(公正さ)と言い換えることもできるだろう。

とんがりねずみたちのことを詮索するムーミントロールにおしゃまさんは言うのだ。
「いや、なにもかもききただそうとするもんじゃなくてよ。あの子たちのほうではひみつをまもりたいのかもしれないものね。とんがりねずみたちのことなんか、気にかけないこと。雪のこともね。」
他者を他者のまま存在せしめるには、自分一人でたっていられる強さ(忍耐)が必要だ。

自分のうちのものであるはずの水浴び小屋で感じた疎外感は、家にもどってもぬぐわれない。ママは寝言は言うが起きてはくれず、家では銀のお盆をはじめいろいろなものがなくなっている。自分がなんとかしなければならないと思い、おしゃまさんのところへ出かけるムーミントロール
「あんたたちはいったい、あんまりいろんなものをもちすぎてるのよ。思い出の中のものやゆめで見るものまでさ。」
所有と執着の感覚からぬけられないことが、冬の世界への嫌悪と疎外感の元凶であると、おしゃまさんは喝破するのだ。ムーミン屋敷の流しの下にいるものたち。水浴び小屋のとんがりねずみたち。黒い氷。ぶきみな雪の馬。姿を見せないお日さま。みつめるだけで口をきかないモラン。おしゃまさんは、この世界には、とても内気でかわりものの生きものがいろいろといて、一年中どこかにこっそりかくれており、何もかもが眠った冬にやっと出てくるのだという。ムーミントロールには、ここが本当の世界だとは思えない。
「だけど、いったいどっちがほんとうだか、どうやってわかるの。」


おしゃまさんが冬の大かがり火をたく準備をする。明日はお日さまが帰ってくるという。前夜祭である。かがり火をたくと、見知らぬ生きもの達も集まってくるが、じきにまたいなくなってしまう。ムーミントロールは見知らぬ他者との出会いを期待するが、彼らと思うようなコミュニケーションはとれずにおわる。お日さまはほんの少しだけ顔を出して、すぐに沈んでしまい、ムーミントロールをがっかりさせる。フィンランドの冬は続く。


それでも、少しずつ日は長くなり、ムーミン屋敷に住むご先祖さまとの出会いを皮切りに、自分のことをつよい狼の仲間だと思っている犬のめそめそや、みんなに嫌われても気づかないヘムレンさん、はい虫のサロメちゃんなど、いろいろなお客たちを屋敷に迎えいれ、食べ物を供する暮らしがはじまった。
けたたましく平和を乱す嫌われ者のヘムレンさん。彼を追い出すようにおしゃまさんに言われ、ムーミントロールは「おさびし山」の話を持ち出す。しかし、疑うことをしらないヘムレンさんを見て、あわててひきとめにかかる。結果、ムーミントロールの気持ちは軽くなり、新年になってからはじめて、降る雪を親しいものと感じるようになる。夏に感じるのと同じ、うっとりした気持ちに引き込まれていく。
(これが冬か。そんなら、冬だってすきになれるぞ。)
他者との関係を通して、自分を肯定的に受け止められたことが、疎外されていた冬の世界との親和につながったのだろうか。この場面のヤンソンさんの描くムーミントロールの表情が、それを物語る。そして、春の到来を告げる激しい吹雪の中で背を向けたときが、ムーミントロールのイニシエーションの最終章だ。風にむかって進もうとしてへたばったムーミントロールが背を向けたとたん、その風があたたかいことに気がつく。
(ぼくは空気なんだ。風なんだ。ふぶきにまじってとんでいけ!)
(さあ、いくらでもおどかすがいいや。もう、おまえのやりかたはわかったぞ。わかってしまえば、おまえもほかのやつとにたものさ。これからは、もうだまされないよ。)


ヘムレンさんとサロメちゃん、それに犬のめそめそはおさびし山をめざして出発し、いよいよ春の気配が強くなる。屋敷のお客たちも自分の家にかえってゆく。ジャムの倉庫も空になった。やっと開くようになったドアを開け、ムーミントロールは家の中に風をとおす。
「いまこそ、ぼくはのこらず知ったわけだ。」
「ぼくは、一年じゅうを知っているんだ。冬だって知ってるんだもの。一年じゅうを生きぬいた、さいしょのムーミンなんだぞ、ぼくは。」
泣き言をいい、腹をたて、冬の世界を敵に回し、うんざりしていたムーミントロールは、いくつかの重要なイニシエーションを経て、確実にヴァージョンアップした。
語り手は言う。春というものは、よそよそしい、いじの悪い世界から、自分をすくいだしてくれるものではなく、かれが自分で手に入れて、自分のものにしたあたらしい経験の、ごく自然な続きだったと。


世界(自分以外の存在全て)は所有したり飼い慣らしたりすることはできないが、他者と正面から出会い、経験を手に入れることで世界との関係を更新し、世界の中で生きていくことができる。ムーミンシリーズを読むとき、いつも、世界からの疎外、他者との違和、問題の解決(イニシエーション)、先導者(おしゃまさんやミィ)の助言、世界との調停といった、物語の原型がもたらすここちよさを感じる。それが殊更な拵えごとではなく感じられるのは、フィンランドが育てたヤンソンさんのたしかな自然感覚・生活感覚が、物語に深みと生命感を与えているからに違いない。
2015.2.16 



今回知って驚いたのが以下。ウィキペディアより。

ヤンソンの私生活でのパートナーはグラフィックアーティストのトゥーリッキ・ピエティラ(Tuulikki Pietilä、1917年2月18日 - 2009年2月23日)。彼女は、ムーミン谷博物館に納められた数多くのムーミンフィギュアやムーミン屋敷の制作でも知られ、作品『ムーミン谷の冬』に登場するトゥーティッキー(おしゃまさん・おでぶさん)のモデルともなっている。

なんとおしゃまさんのモデルはヤンソンさんのパートナーの女性だったのです。てか、ヤンソンさんは女性愛者だったのですね!!