塗籠日記その弐

とりふねです。ときどき歌います。https://www.youtube.com/user/torifuneameno 堀江敏幸・宮城谷昌光が好きです。

「新編 森のゲリラ 宮澤賢治」西成彦

クレオール事始新編 森のゲリラ宮沢賢治 (平凡社ライブラリー)kateさんの日記に「日本人はmulti-lingual」とある(kateさん、おめでとうございます)。kyoshidaさんの日記では「発見」について「自然の前に謙虚であるとき自然が口を開く 」状態だと言われていた。そういう言葉を頭の中で響かせながら読んでいるのが「新編 森のゲリラ 宮澤賢治」で、前に読んだ「クレオール事始」の著者が過去の著作をまとめ直したもの。宮澤賢治の作品を植民地文学として読んでゆく。
気になるところをちょっと抜き書き。

 今世紀に入って多くのカリブ作家の反植民地主義的試みの多くは、このキャリバン*1を起点にしている。二十世紀文学は、非カンニバルが言説の主体であり続けたプロスペリズム*2の時代から、非カンニバルの言語を通してカンニバル*3が自己表出をおこなうキャリバニズムの時代への移行期を迎えたのだ。
 宮澤賢治は、日本人のおおかたがじぶんをキャリバンではなくプロスペローの末裔であると意識しはじめた時代にあらわれ、じぶんがキャリバンなのかプロスペローなのか見定められない状況の中で、同時代日本のキャリバニスト(アナキストやマルクシスト)たちとは距離をとりながら、独自のキャリバニスト文学の可能性をさぐった作家である。(p67)

宮澤賢治のイーハトーヴ構想の中では、「出現」が罪でありえた時代が、まだまだ遠くない過去として記憶されている。
 「出現」の道義性を問うこと。コロンブス以降の西洋植民地主義を問い直すときにも、どうしても素通りを許さない重要な手続である。
 コロンブスは、ヨーロッパ世界の西に「インド」が「出現」するさまを目撃した最初の西洋人のひとりとして知られているが、じつは、アメリカ大陸と後になづけられる大陸にはじめて「出現」した白い人として歴史に留められる存在でもあるのである。
 予期しない存在の「出現」は、新しい交通のはじまりであり、それはそもそも罪などであろうはずがない。「狼森と笊森、盗人森」の農民がそうであったように。
 ところが、異文化接触そのものが原罪性をはらんでしまう歴史的プロセスが存在したことも、これまた否定できない事実なのである。
…歴史を乗り越えて、むしろ誰もが「外国人」として相互にカムアウトしあい、対話的な言語を模索していくような新しい山人(キャリバン)たちの文学を軌道に乗せるためには、その前に、まず出現することの罪深さを引き受けなければならなかった過去の「ばけもの」たちの心を癒すことからはじめなければならない。ただの「供養」*4に終わらせてはならないのである。…(p90~p91)

特に「自然」、「山人(キャリバン)」、「先住民」らが、出現すること(発見されること)を罪と感じてしまう、異文化接触がはらむ原罪性という考えが、わたしには目新しく(といっても納得できる)、興味深い。それはプロスペローによって刻印されたものなのかな??


絵本 パパラギ―はじめて文明を見た南の島の酋長ツイアビが話したこと朝の少女 (新潮文庫)ここまで書いていて思い出した本がある。マイケル・ドリスの「朝の少女」だ。この物語、ある部分がなければとても好きな作品なのだが、それがあることで、すっかり物語の美しさが損なわれているような気がしていた。そのある部分とは結末だ。本編の語りの外枠で注意書きのように語られる。ここにプロスペローが現れて、全体を台無しにしてくれる。関係ないが、作者ドリスが自殺したと三冊めのあとがきで知ったときはびっくりしたなー。


ポストコロニアリズムの文脈で思い出したのは「パパラギ」。和田誠の絵も含め、結構好き。

*1:シェイクスピア「嵐」

*2:同じく「嵐」

*3:人喰い

*4:柳田國男「山人外伝資料」中のことば