塗籠日記その弐

とりふねです。ときどき歌います。https://www.youtube.com/user/torifuneameno 堀江敏幸・宮城谷昌光が好きです。

「マイ・グランパパ、ピカソ」マリーナ・ピカソ

マイ・グランパパ、ピカソコクトー展を見てきた流れで、久しくツンドク本だった本書を読む。衝撃的な内容にひきこまれ、一気に読んでしまった。


ピカソの息子ポールの子どもたち、パブリート(パブロ)とマリーナ。マリーナは二人の子どもを学校に送り届ける車を運転中、激しいパニックにおそわれ、精神分析を受け始める。苦しい過去を涙、失神、叫びとともに吐き出しつくす精神分析は14年間におよんだ。


ピカソの運転手、使用人として常に偉大なピカソの顔色をうかがいながら生活費を受け取る父ポール。ポールと別れた後も、ピカソに繋がることをアイデンティティとし、それを吹聴しつつ、一方では受け取る生活費の少なさについてピカソをなじり、自らは次々と若い男友達とつきあう母エミリエンヌ。ピカソ一族と考える周囲には理解されない貧しい暮らし。生活費をもらうために訪れるラ・カリフォルニーで、決してふつうのおじいちゃんとして愛を示すことはなく、つねに壁を感じさせる「王」としてのピカソ

私たちは学校に行くために、朝7時には起きなければならない。母はまだ寝ている。キッチンは散らかり放題だ。テーブルの上には、いくつものグラス、瓶、吸い殻のあふれた灰皿に占領されている。私たちはひとことも言わずテーブルをきれいにし、テーブルクロスをスポンジで拭き、吸い殻と空き瓶をゴミ箱に投げ入れて、グラスをシンクに運ぶ。母にやさしくしてもらい、父に笑ってもらい、祖父に愛してもらうためには、自分たちがお荷物であることを彼らに忘れさせなければならなかった。結局のところ、父が週給のために自分の品位を落とすのも、祖父がしばしば私たちに会うことを拒否するのも、母がチンピラを家に連れてくるのも、私たちのせいなのだ。もし私たちがいなければ、みなが平和に暮らせるだろう。みなが幸せになれるだろう。パブリートと私は、自分たちがお荷物であることはわかっていた。しかし、私たちは、もしかしたら、いいやつ(父)と悪いやつ(祖父)を引き合わせ、仲直りをさせることができるかもしれないと思っていた。私たちはこれを「幸せづくり」と呼んでいた。それは具体的には、家を掃除すること、私たちの部屋を片付けること、お皿を洗い、ベッドの母に朝食をもっていくこと、などを指していた。

まだ10歳になる前のことだ。愛されていることを確信できない子どもたちは、結局それがすべて自分のせいだと思ってしまう。マリーナは「『ピカソ・ウィルス』に感染しなかったら、母は申し分のない品位を備えた女性になっていただろう」と書き、「母は家庭を与えてくれた」と書くが、私の印象では、ピカソの暴君ぶりよりも、母エミリエンヌの誇大妄想的なところ、自己顕示、自己本位、男性遍歴などが、マリーナとパブリートの心に直接の傷をつけているようだった。唯一の安心と愛の与え手であった祖母オルガとの幼い頃の思い出は、おのずと母ミエンヌの不全を際立たせる。


苦悩に満ちた回想の中にも美しい場面も多い。孫を迎えたピカソが、闘牛の真似をして子どものようにはしゃぐ。ラ・カリフォルニーの美しく、芳しい庭の風景。祖父が口の中に落としてくれるクルミを詰めたナツメヤシとイチジク。(この菓子は後にマンディアン=乞食という名であるとわかり、唯一祖父の愛をかんじた聖体拝領の儀式も王ピカソの権力の行使と意味付けられるのだが。)


本書の中でもっとも痛ましかったのは、マリーナと苦しみを分ち、常に(わざと落第してまで)寄り添うように過ごしてきたパブリートの死だ。勉強にも身を入れず、暗い詩を読みふけり、時折家を出て彷徨するようになっていたパブロ。1973年4月8日、ラジオから流れるピカソの死のニュース。「どんなに説得されたって、おじいちゃんに会う。僕にはその権利があるはずだ。」ノートルダム・ド・ウ゛ィで門番に追い返され、祖父の最期の姿にまみえることもかなわなかったパブロは、2日間話すことも食べることもしなかった。祖父の死から4日目、家に戻ったマリーナは血の泡をあふれさせベッドに横たわるパブリートを発見する。大量の漂白剤をのんで自殺をはかったのだ。

入院後、なんとか話せるようになったパブロの言葉。

「あの人たちは、僕らに出席してほしくなかったんだ。彼らの人生の一部になってほしくはなかったんだろう。父親だって当てにできないじゃないか。あの人は大人になっていないんだもの。(略)ピカソ帝国はきみ医学の勉強をするのを妨げたじゃないか。あのひどい仕事をするようにきみを仕向けたのもピカソ帝国だ。ピカソ帝国は、すべてのきみの可能性の扉を閉ざしたんだよ。こんなことはもうやめにしなくては。」
「最後の逃亡を企てたってわけさ。きみを救い出すために、僕は逃げた。そうしなくちゃならなかったんだ。彼らに対抗するには行為で示さなくちゃダメなんだよ。」
「僕らの苦しみのすべてを、僕は内側から破壊したかったんだよ。今はあの人たちにも、君が生きていることがわかるだろう。これからはきみの面倒を見てくれるよ。少なくとも、世論を気にするようにはなるだろ。」

やっと会いにきた父ポールを「もう遅すぎるって言って」と拒み、焼けただれた消化器官が回復することもなく、ハブリートは7月に死ぬ。マスコミは「ピカソの孫の死」に騒ぎ立てる。「彼の名はパブロ。祖父と同じ名だった。」死んではじめて、「パブリート」ではなく、自分自身の名で呼んでもらうことができたのだ。入院治療費用がかさみ、友人たちのカンパでやっと葬儀代を払う。その2年後父ポールが死に、マリーナは遺産相続人のひとりとなるが、マリーナはピカソ一族から逃走することを望む。


14年間の精神分析は祖父ピカソのイメージを修正した。マリーナが自分の知らない祖父の姿を見いだしてゆく過程は、読者の心を安らかにする。

今はーそして、これが、私が本を書きたいと思った理由なのだが、ー私には理解できる。祖父はあらかじめ私たちから奪われていたのだと。パブリートと私はたまたま彼の生活に入り込んでしまった存在だった。けれども、父や母や所有欲の強い彼の妻の無責任な行動が、訪れるたびに私たちが渇望した祖父の愛情を、私たちから奪いさってしまっていた。
(中略)
ピカソは、ほんの一時の間オリュンポスの山の頂から下界に降りて、私たちをしばらく抱きしめながら、ごく普通のおじいちゃんになろうとしていたのかもしれない…。でも彼にはできなかった。作品の中に閉じこもり、現実との接触をすべて失って、誰にも侵せない内面世界に吸引されていたのだから。
作品だけが彼の言語であり、世界観を表現する唯一の手段だった。彼は子どものときから内面的な宇宙に入り込んでいたのである。

このあと、回復とともに、もっと子供が欲しくなったマリーナは実子のガエルとフロールのすすめで、ベトナムの子供たちを養子に迎え、遺産を使ってベトナムの「若者の村」の建設をはじめる。愛されないと感じていた瀕死の魂が愛することによって息を吹き返す。子供たちへの思い、子供たちとのやり取りはあたたかく、最後に大きな自己肯定で作品はしめくくられる。

これが私の人生。人生という晩餐会に招かれて、私は自分にできること、私自身がなすべきだと思ったことをした。あるときにはうまくいったし、あるときには失敗もした。「青色の絵の具がないときには、赤を使うんだよ」。祖父はそう言っていた。

翻訳の五十嵐氏と同じく、私も最後には泣いてしまった。マリーナは、この本や他の著作によって、ピカソの他の子供たちとはうまく行っていないようだし、客観的な事実はどうなのか考えながら読むべきだとは思うが、読み物としてはとてもよかった。これを読んでも、ピカソを嫌いになったりはしない。