「狩猟と編み籠」読後
中沢新一の「狩猟と編み籠」を読んだ後(いつものようにぼんやりあたまには未消化だが)に芝居や映画を観たら、頭が狩猟と編み籠になっていた。映画は表現としては若いけれど宗教の構造とそっくりですよ、という本。読みながら坂口安吾の「文学のふるさと」を思い出す。救いのないところに救いがある、というのは中沢先生の言う第二イメージ群のところに合うような気がする。
- 作者: 中沢新一
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2008/05/31
- メディア: 単行本
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それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身(うつしみ)は、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一(ゆいいつ)の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。
私は文学のふるさと、或(ある)いは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まるーー私は、そうも思います。
坂口安吾「文学のふるさと」
第二イメージ群、無〜有。自分の単純な理解では、ここは詩的な言語で、交換不可能なかたちで「表現」と表現の向こう側が結びついている。
第三イメージ群、有〜有〜有…。無限に交換可能な言語、表現。
白石加代子の一人芝居百物語、三遊亭円朝作「牡丹灯籠」を観る。お峰、伴蔵夫婦が、幽霊相手に商談を持ちかけるところで、上記の第二イメージ群から第三イメージ群への移行をみる。交換不可能なものを交換可能なものに替えようとしたわけだが、その振る舞いは魂の救済とは逆の道を行くものだ。(この芝居を見ていて、シェイクスピアの「ヴェニスの商人」や「マクベス」のことも頭に浮かんだ。)
ロマン・ポランスキーの「テス」を観る。キリスト教の外に大きく逸れていく女の物語。テスは交換不可能な女性として描かれる。男たちは交換不可能な女の実存(第二イメージ群)を第三イメージ群の価値の体系に取り込もうとするがかなわず、結局は生命の領域の外(テスを愛人にしたアレックの場合)、法の領域の外(テスの夫エンジェルの場合)、に荒々しい遠心力によって放り出される。ラストシーン、ストーンヘンジの石の上で眠るテスは、野蛮な力を秘めた異教の女神であり、同時に犠牲(いけにえ)のように見えた。ナスターシャ・キンスキーの野蛮な美しさはぴったりだった。「狩猟と編み籠」の最後に紹介されていた、大好きなフェデリコ・フェリーニの「道」のジェルソミーナもまったく様子が違うけれどどこか同じものがあるようだ。
- 出版社/メーカー: ハピネット・ピクチャーズ
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