塗籠日記その弐

とりふねです。ときどき歌います。https://www.youtube.com/user/torifuneameno 堀江敏幸・宮城谷昌光が好きです。

ヒラカワさんのブログから

http://plaza.rakuten.co.jp/hirakawadesu/diary/200506180000/
ただ写すだけで芸がないが、いろいろと考えたいことが含まれているので写しておく。ヒラカワさんは困ったときに頼りになるおじさん(お兄さん)みたいだ。

主要な論件をめぐって議論が角遂することは
タフなことには違いは無いがストレスはあまりたまらない。
どうでもいいことで議論が空転することの空しさが
ボディに効くのである。

どうでもいいようなことに
こだわり続ける人というものがいる。
面子。原則。被害者意識。ポリティカルコレクトネス。
厳密な定義。自分の感情への誠実。
これらのことが、重要な場合もある。
しかし、遂行的な場面においては、
ほとんどどうでもいいことである。

ビジネスにおいて
ふたつの戦略のどちらを選ぶかといった
議論を何度もしてきた。
俺はほとんどの場合、どっちだっていいじゃねぇかなのである。
だって、未だ実現されざる未来について
厳密な議論をしたところで、それが未来を保証するわけではない
ことを経験的に知っているからである。
とくに、判断が二分している場合には、
どちらにも、すこしはいいところがあり、
どちらにも、瑕疵があるということである。
いや、未だ実現せざることについての話である。
やってみなけりゃわからない。
どっちが正しいかというような正邪の文脈の話ではないのである。
むしろ、将来の成果に決定的な影響をあたえる
ファクターは、
「誰が」それを担うかということだろう。
そいつが、信用のおけるやつであり、情熱をもってやりたい
というのなら、
もう、半分以上は道筋が見えていると言うことである。
「いんじゃないの。」
「ま、じゃあやってみっか。」
「で、俺は何をすればいいの」
こんな感じで、何十年もやってきて、
決定的な過失は無かったように思う。
だいたいでいいというのは、
いいかげんということではなく、
「あたり」はついているということなのである。
遊撃隊の任務を分担せよ。
遂行的な場面で重要なのはこれ以外には見当たらない。

相手の「自分の感情への誠実」を非難しながら、わたしもまた「自分の感情への誠実」にとらわれているのかなぁ。よくよく考えてみたいところだ。でも公的な話で自分の感情・感覚を横溢させるのはだいぶん気持ちが悪かった。スポークスマンなんだからさぁ。それにいつもどっかに自分がひとり十字軍みたいなヒロイックな文脈(ある意味被害者意識)が出ちゃってるんだよね。あれもそうとう気持ちが悪いな。この気持ちの悪さをどうするか(これがそうとうボディに来ているので)は、今の切実な課題だ。相手に直接言ってみようかと思ったが、ある人に「言っても何も変わらないのではないか、待て」と言われた。「待つ」というのはアリかもしれない。時が熟するのを待つか。