塗籠日記その弐

とりふねです。ときどき歌います。https://www.youtube.com/user/torifuneameno 堀江敏幸・宮城谷昌光が好きです。

生きることを学ぶ、終にApprendre a vivre enfin(アクサングラーヴが出ません)

生きることを学ぶ、終に

生きることを学ぶ、終に

たいしてわかりもしないのだけれど、なにか打たれるものがあるのはなぜ。「生き残り」という言葉が迫ってくる。インタビュー最後の部分。わからないのに「わかる」部分は随所に。(この本だったら短いし、原文を見てみたいなぁ。)

生き残りとは生の彼方の生、生以上の生のことであり、私が展開する言説は死と狎れあうようなものではありません。反対にそれは、死よりも生きることのほうを好む生者の肯定なのです。というのも、生き残りとは、単に残るもののことではなく、可能なかぎり強烈な生のことなのですから。(中略)自分の生を思い返すとき、私には、自分の生の不幸な瞬間まで愛するというチャンス、それらを祝福するというチャンスがあったと考える傾向があります。(中略)幸福な瞬間を思い返すときには、それらもまた、私はもちろん祝福します。同時にそれらの瞬間は、死の想念に向けて、死に向けて私を急き立てます。なぜならそれは過ぎ去ってしまった、終わってしまったのですから…。

そして、その後の訳者鵜飼哲さんの文章では、またまた地下鉄内落涙。

妄想はさらに続く。上梓された翻訳を著者に贈る。そしてある日、電話が鳴る。「こんにちは、私はジャック・デリダです。本当にありがとう。今回も美しい本にしていただいて。また大変なお仕事だったでしょう…。」(中略)こんな瞬間、こんな応答の時間はもう二度とない。そう自分にいい聞かせつつこの翻訳を誰に贈るべきか考えずにはいられない。私のなかには、まだ、本を贈ればきっと彼の声が、あるいはあのほとんど判読不能の彼の手紙が、ある日、届くことを信じ続けている誰かがいる。そうでなければ翻訳する意味がどこにあるのかと、つぶやく声がある。


明日はすべての死者のためのミサの日だ。「生き残り」の意味をかんがえる。死者に対する「怠り」についても考えてみたりする。