塗籠日記その弐

とりふねです。ときどき歌います。https://www.youtube.com/user/torifuneameno 堀江敏幸・宮城谷昌光が好きです。

偶然性の精神病理 (岩波現代文庫) 木村敏 アクチュアリティとリアリティ

すぐ忘れちゃうのでメモメモ。

  • 「アル」が「ものごとの出現・存在」についての「認識」によって限定されるのに対して、「イル」はウチを設立してそこに居場所を設定する能動的な行為を言い表している。アルものがreal/possibleであるのに対して、イルものはactual/virtualであるといってよい。最も勝れた意味で「イル」といえるもの、「ウチ」を「ソト」から区切る原理となるものは「自分」としての自己であるということができるが、「自分」とは同じく最も勝れた意味でのアクチュアリティであって、本来は決して純然たるリアリティにはならないはずのものである。p73
  • ただ、分裂病と呼ばれる狂気をそのもっとも極端な病的様態とするある種のタイプの人たちは、自己をアクチュアリティとしてではなく、リアリティとして意識する強い傾向をもっている。p73
  • 彼にとっては、アクチュアルな自己を生きているという実感、この世に「イル」という実感は、つまり単に「確率的」に可能な選択肢の一つにはとどまらないところの、特権的で絶対交換不可能な「実存」として世界のウチに居場所をもっているという実感は---一言で言えば「力への意志」の実感は---耐えがたい「罪」の意識を生み出すらしい。
  • 普通なら「力への意志」の発現として積極的に望まれるはずの「成功」が、彼にあってはいわば「偶然性」がおもいもかけず分不相応な「必然性」を獲得し、リアリティがうっかりアクチュアリティの領域を侵犯してしまった「罪」のために、攻められるべきことでしかない。p78

本書前半を読んでいて、ずっと頭にうかび続けたのが、志賀直哉の「城崎にて」蜂の死は「リアリティ」、ねずみの苦悶は「アクチュアリティ」、いもりの死の瞬間は…。そこで語り手が語った気持は…。

  • 生物の「身体」とは、個体が自らの存続(イルこと)に必然性を与えるために所有している、もっとも「身近」な「ナワバリ=居場所」と見ることができる。しかしまさにこの点において、身体というかたちをもった物体は一つの悲劇的な矛盾をひき起す。身体をもち、身体を所有するということは、物体として対象的にアルことである。日本語は「モツ」にも「アル」にも同一の「有」という漢字を当てている。生物は身体を有することによって、必然と偶然、イルとアル、個別と特殊、リアリティとアクチュアリティの二重構造を生きなくてはならなくなる。この差異構造が人間の意識に、イルの必然としての「自」とアルの偶然としての「他」の観念を生み出し、これが人間関係における自他の区別の根源となったものと考えてよい。p87、88
  • 主体性あるいは自己とは、必然性の相のもとに捉えられた存在のことである。偶然にアルものについて、われわれは主体的という言いかたをしない。しかし、主体的な自己を可能にするために力への意志が生成の流れに押した存在の刻印は、物体的身体のかたちを取ることによって、自己をかえって偶然性の領域に置くことになる。自己は個別的な自己であるための代償として、他人と交換可能な物体的身体としての存在を引受けねばならぬ。n分の一の成員としてnの集合に包摂されることを甘受しなければならぬ。「イル」ためには、まず「アラ」ねばならぬということなのである。主体の単独性は自己と他者との複数性を前提としている。これが人間における一切の悲劇の源泉となる。p91、92

ニーチェの「力への意志」など、私には難しくピンと来ないまま読み進めているが、症例がでてきて話が具体的になると、すこしわかりやすくなる。

ところで、この本のはじめの方、自然科学とキリスト教についてのところでちょっとひっかかったところがあった。

また、ヨーロッパにおける自然科学の成立と発展の歴史を考えてみるとき、それがはたしてキリスト教と無関係といえるかどうかも問題となる。むしろキリスト教は、さしあたりほとんどの場合、自然科学の弾圧者としての役回りにおいてであれ、いま問題にしているような意味での近代自然科学の形成に大きな役割を演じてきたのではないだろうか。科学者が真理に対する「信仰」の名のもとに、「非科学的」な世界を断罪するとき、そこにはどこか宗教との同形性のようなものが姿を見せていはしないか。そしてこの役割は、日本の、あるいは東洋の宗教にとっては、本来無縁のものであったのではないか。p27

という箇所。わたしは、ヨーロッパの自然科学は一神教たるキリスト教のかわいい一人息子だとずうっと思っていたし(高校で世界史を習った時点で)、そういう考え方は、ごく一般的なものだと思っていたので、こんな問題提起がここでいまさらなされるのは、とても意外だった。この本がはじめに出たのは1994年だ。