塗籠日記その弐

とりふねです。ときどき歌います。https://www.youtube.com/user/torifuneameno 堀江敏幸・宮城谷昌光が好きです。

「私家版・ユダヤ文化論」内田樹 爆走!!ウチダ節

私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)

私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)

最初は内容よりも、「ウチダ節」(言葉遣い)の方に注意が行ってしまう。

  • 〜ことに私は与しない。
  • 〜は〜に担保されているのである。
  • 〜である。(たぶん)
  • 〜ことを寡聞にして私は知らない。
  • 〜だが、そうなのである。
  • 私は〜と思っているわけではない。むしろ〜である。
  • 〜である。そして私たちの過半は〜タイプの人間である。
  • 私はこのような〜を想像することができない。
  • 〜と言うことによって、〜は何を言おうとしているのか?
  • 〜ということによって、どんな利得があるのか?
  • 理路
  • クリアカットな
  • 瑕疵
  • リソース

この口調、なじんでくると、講談か、落語、または蝦蟇の油売りのようなグルーヴ感があるのだが、これでイラッとする人は、かなりイラッとするでしょうね。
中ほどの、日本における反ユダヤ主義の展開や、フランス革命後のエドゥアール・ドリュモン、モレス侯爵の詳細なエピソードは、記憶力のないわたしには読み飛ばしてしまいそうなところだったが、最後の章は眠気もおさまっておもしろく読めた。最終的にはレヴィナス老師・ラヴなウチダ先生であった。この、「老師ラヴ」な感じが好きなとこです。変な意味ではありません。みうらじゅんの「おかんラヴ」をいいなと思うのと一緒です。自分の頭のしくみに従って、単純にしか理解できないわたしです。

以下メモ。最後の()はとりふねの間の手です。

  • ユダヤ人が例外的に知性的なのではなく、ユダヤにおいて標準的な思考傾向を私たちは因習的に「知性的」と呼んでいるのである。p182 (えらい学者がみんなユダヤの人なのが不思議だったんです@とりふね)
  • 自らを「神に選ばれた民」であると信じ、自らを「聖なるもの」であると思いなしている信仰者集団は世界のどこにも存在する。けれども「救い」における優先権を保証せず、むしろ他者に代わって「万民の死を死ぬ」ことを求める神を信じる集団は稀有である。「ユダヤ的知性」は彼らの神のこの苛烈で理不尽な要求と関係がある。この不条理を引き受け、それを「呑み込む」ために彼らはある種の知的成熟を余儀なくされたからである。p188
  • ユダヤ人はつねに自己定位に先立って、先手を取られている。サルトルによれば、ユダヤ人は自分が何者であるかを、主体的な「名乗り」によってではなく、反ユダヤ主義者からの「名指し」によってしか知ることができない。レヴィナスによれば、聖史上のユダヤ人が口にする最初の言葉は「私はここにおります」(Me voici)という応答の言葉である。どちらの場合も、ユダヤ人は「すでに名指され」「すでに呼びかけられたもの」という資格において、レヴィナスの術語を借りていえば、「始源の遅れ」(initial apres-coup)を引きずって、歴史に登場する。そのつどすでに遅れて世界に登場するもの。それがユダヤ人の本質規定である。少なくともサルトルレヴィナスという二十世紀を代表する哲学的知性がユダヤ人について唯一意見が一致した点である。p189(イニシヤル・アプレ・クー出ました!!@とりふね)
  • ユダヤ人はこの「世界」や「歴史」の中で構築されたものではない。むしろ、私たちが「世界」とか「歴史」とか呼んでいるものこそがユダヤ人とのかかわりを通じて構築されたものなのではないか。p199(ほぇーっ@とりふね)
  • 「この種の反ユダヤ主義において、ユダヤ人は無意識の水準では(…)〈悪しき父〉、子供を折檻し、処罰し、殺害する父を表彰している。(…)〜〜」ノーマン・コーン『ジェノサイド許可証』それゆえ、ユダヤ人たちは、キリスト教社会において、「恐るべき〈父〉を連想させるエディプス的投影の理想的な標的」とみなされる。子供はこの「悪しき〈父〉」、「恐るべき〈父〉」を憎み、殺害し、完膚なきまでに破壊することを切望すると同時に、そのような攻撃的感情を抱いている自分自身につよい有責感を覚える。そして、この有責感が外界に投射されたとき、それは悪魔として表象される。p202
  • 誤解されることを恐れずに言えば、「殺意」はある意味では自然なものである。〜〜それはつまり、殺意も有責感も、どちらも単独では、それほどに深く人間を損ないはしないということである。〜〜危険なのは、殺意を抱きつつ同時にそのことについて有責感を抱いている人間である。そういう人間はあまりに強い有責感ゆえに、「自分が殺意を抱いている」という事実そのものを否認するからである。P203(そういうことあるある@とりふね)
  • フロイトの「強迫自責」に対して)対立や葛藤というものについて私たちが知っていることは、〈逆説的に聞こえるだろうが〉、対立や葛藤は対立し、葛藤しているものを相殺するのではなく、むしろ強化するという経験的事実である。p210(ほんとにそうですね@とりふね)
  • 私は死者に対してこれほど豊かな愛情を抱いていたのだという確信を得るために、私たちは「愛する人の死を願う」無意識願望を道具的に利用するのである。フロイトはそのようにも読める。私はそのように読んだ。だから、自分は愛情深い人間だと思っており、かつその愛情の深さを絶えず確認したいと望む人間ほど危険な存在はない。彼らはいずれ「愛する人の死を願う」ことで自分の中の愛情を暴走的に亢進させることができるという「殺人ドーピング」の虜囚になるからである。p211(他人事と笑ってすますことができないよぅ@とりふね)
  • 反ユダヤ主義者はどうして「特別の憎しみ」をユダヤ人に向けたのか? 〜〜私がこれから書くのが私に唯一納得のゆく答えである。それは「反ユダヤ主義者はユダヤ人をあまりに激しく欲望していたから」というものである。(まるで苦しい恋でもしているようだ@萩尾望都『偽王』 引用 とりふね)

このあと、神という概念の発生についてのフロイトの「原父殺害」のシナリオから、ユダヤ教の他民族・他宗教とは異なる時間意識「アナクロニズム」(@レヴィナス)に、まーーったりと移ってゆきます。いにしやる・あぷれ・くー。いちばんとろりとしたとこを引用するのはあんまりなのでやめておきます。「未だ生まれていない、これからも生まれない〈責任〉を負っちゃうのが大人であり、人間の善性」ということ? (黄門さまの印籠みたい、きらいじゃないけど。)おもしろかったです。最終章の、極右思想家モーリス・ブランショユダヤレヴィナスの交わり〈なかよし〉についてのお話しがとても好きでした。ほんとうの〈なかよし〉のお話しは好きです。キツネと王子さまみたいに。ブランショレヴィナスにアプリヴォワゼされちゃったとか…?。



世の中が分からない私としては、なぜ中国とインドでだけ、ユダヤ人はだいじょうぶだったのか、教えてほしかった。あっ今、書いてて思いついた。「まとまらなきゃーオブセッション」が成立しようもなく多様だったからかな?? そんな単純じゃないか…。


それから「反ユダヤ主義」の感じも、日本の「部落問題」も、ここ北海道の山裾ではなかなか身をもって感じることができません…。本を読んで想像することしか…。それはわたしたち道民がすでに「ながれもの」@蟲師 だから??