塗籠日記その弐

とりふねです。ときどき歌います。https://www.youtube.com/user/torifuneameno 堀江敏幸・宮城谷昌光が好きです。

折口信夫 いきどほる心

折口信夫――いきどほる心 (再発見 日本の哲学)

折口信夫――いきどほる心 (再発見 日本の哲学)

読了。いかにも学者さんの論文という、わたしにとっては固い本で草臥れた。(平田篤胤のところとかめんどくさくてちょっと飛ばして読んだり。)抜き書き。
序章では折口の根本の情念として「いきどほり」と「さびしさ」を挙げる。前半折口の国学者としての独自性、「古代研究」における「常世神」「たま」「ほかひびと」などの語を紹介しつつスサノヲの「天つつみ」について触れる。
後半。

そもそも、ニーチェと違い、「原罪」という概念は、神道史におい伝統的に取り扱われてきたわけではなく、折口がここで独自に持ち込んだものである。それゆえ、折口の議論に寄り添って問題を整理し直すならば、折口が自分で「罪障観念」を問題として立てておきながら、スサノヲも「無辜の贖罪者」であるとし、ひとびとも「贖はなわなければならぬ因子」がないとして、「罪」の内実そのものを無化してしまっていることを、われわれはどう理解すればよいのか、ということになろう。p156p 第三章戦後の折口学 三贖罪者としてのスサノヲ

と、折口によるスサノヲの贖罪論の矛盾を指摘したのち、

おそらく、ひとびとの側に「罪」があり、それを贖ってくれる存在としてスサノヲを信仰するのでは、結局のところ、人間の側に優位を置いた功利に堕してしまうという思いが折口にはあったのではないか。神の非合理生を強調する折口としては、みずからの利益とは無関係に、一方的に人間の側が神を背負うのでなければ、真の信仰とはみなせないと考えていたのである。

と述べ、まず、「憤り」を発するのが「日本人の持っている神の本質」である、神への信仰は人間の基準へと合理化されるべきでないとする折口の考えを紹介する。

スサノヲの「告ぐることなき苦しみ」は、「何の犯しもしない」からこそ、純粋な「自我滅却」となり得たのである。そして、ここでは、それが「宗教の土台としての道徳」となったとされている。p159

折口の考える「道徳の発生」ないし「日本の倫理観の芽生え」はそのように、「自分のした不道徳」を自覚することからでなく、「神の怒り」に対して「明く清く」「美しく」心を保つことから生まれてくるべきものであった。p161 四贖罪論の矛盾

レヴィナスとかよくわからないけど、西洋思想に出てくる「他者」の問題と共通するところがあるんだろうかどうなんだろうか。内田樹「私家版・ユダヤ文化論」以前引用した箇所。http://d.hatena.ne.jp/amenotorifune/20060802#p1

自らを「神に選ばれた民」であると信じ、自らを「聖なるもの」であると思いなしている信仰者集団は世界のどこにも存在する。けれども「救い」における優先権を保証せず、むしろ他者に代わって「万民の死を死ぬ」ことを求める神を信じる集団は稀有である。「ユダヤ的知性」は彼らの神のこの苛烈で理不尽な要求と関係がある。この不条理を引き受け、それを「呑み込む」ために彼らはある種の知的成熟を余儀なくされたからである。
p188
私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)

本の後半では、折口の「罪」「死」についての問題意識を「死者の書」から説き起こし、折口の実人生を細かく検証しつつ述べている。母こうの不義。藤無染、藤井春洋との恋。さいごは「国家が神道、神をめぐる言説を固定したことにより罪の問題も死の問題も担うことができなくなった。折口の思索は、まさに己れ自身が納得できる思想体系を、日本の思想伝統を素材に再構成しようとする試みだった」としめている。ふぇー、長いこと読んできて最後がそんな感じ? 中沢新一様のトリッキーな折口本を読んでいる身には、なんだかな〜な締めで(つまり、折口でなくたってだれだって己れ自身が〜再構成するんじゃ?)ちょっとつまらなかったです。この本は、「再発見 日本の哲学」というシリーズなのですが、シリーズの内容として、これは合っているのでしょうか。よくわかりません。でも、この本を読みながら中公文庫の(ほとんど宝の持ち腐れ的)折口信夫全集をひっくり返してところどころ読めたのはよかったですけど。

吉本隆明の「共同幻想論」の引用がちょっとだけあって、ニーチェに比べれは折口ははるかに「お人好し」云々と書いてあったが、その「お人好し」の含むところの筆者の読みとりは正しいのかな。