塗籠日記その弐

とりふねです。ときどき歌います。https://www.youtube.com/user/torifuneameno 堀江敏幸・宮城谷昌光が好きです。

ずいぶん前に書いたものですが、トーベ・ヤンソン「ムーミン谷の十一月」

あちらから飛んできてくださった方のために貼っておきます。よければお読みください。
〜「不在」の求心力、擬似家族、いかりの効力、そのほかについて(2000.2.6に書いたものです。あのころはまだちょっと脳が動いていたようだ。) 
♪1♪
 ムーミン童話の最終巻である、「ムーミン谷の十一月」には、ムーミン一家は登場しません。物語の中心となるべき家族の不在から、物語がはじまります。でも、結論から言ってしまうと、この不在の状態で、ムーミン一家は最後まで物語の中心であり続けるのですよ。ここがヤンソンさんの超絶技巧であります。
 あ、ここまで書いて、何とわたしの頭には日本の神社のイメージが浮かんでしまいました。まん中の大事なところがうつろな場所。そこにまあるい鏡があるでしょう。あれです。あの感じ。そこに何か力が発生する。この物語の構造と重なります。このイメージはかなりよいかも。
 この力にひきつけられるように、それぞれの動機によって登場人物が集まってきます。といっても、ムーミンのなかには人間の登場人物はいないのですけれどね。てもとの文庫本の解説によれば、それはVarelser(バーレルセル)というものだそうです。日本語にすると「存在するもの」という意味でスウェーデン語では、ありふれたひびきをもったことばだとのこと。「たしかにいることはいるんだけれども、なんといいあらわしていいのかわからないもの」だって。 それで、その「登場 Varelser(バーレルセル)」のご紹介。
スナフキン

 秋の訪れとともに、南へ南へと旅を続けるスナフキン。足もとには新しい生命が生まれはじめ、周囲は目にしみるようなあざやかな、ま新しい色が、目につきます。まっ赤なななかまど、黒いしだ。

 この八月、ムーミン谷のどこかで頭にひらめいた、五つの音色をつかって、雨の曲をつくるときがきたんだ、そう感じたスナフキンでしたが、どうしたことか、五つの音色は出てきません。音色はムーミン谷においてけぼりになったんだと感じたスナフキンは、それをつかまえるために、谷に帰ることに決めました。

<ホムサ・トフト>

 ホムサ・トフトはヘムレンさんのヨットのへさきの底のほうに住んでいます。タールのにおいが大すきで、太いうでの中に、しっかり自分をだいてくれる、輪にたばねたロープもすき。秋の夜長、入り江がしいんとしてくると、ホムサは自分で作ったお話を、自分にしてきかせます。しあわせなムーミン一家の人たちの話です。

 お話の中で、ホムサはムーミン谷の散策を楽しむのですが、今週になって、まわりの景色に灰色の霧がたちこめてきて、お話を続けられなくなることが、なんどもありました。霧のたちこめるのはすこしずつ早くなります。ホムサにはどうすればいいかわかっています。

 ヘムレンさんのボートを、このままここにのこして、ほんとうにムーミン谷に行く道をさがそう。ほんとうに、あのベランダにあがって、玄関のドアをひらいて、自分のことを知ってもらおう。

<フィリフヨンカ>

 十一月の、ある木曜日、雨がやんだので、フィリフヨンカは、思いきって、屋根うらべやの窓をふくことにきめました。外がわをふこうとして、窓のしきいをまたいだとたん、フェルトのスリッパが、雨にぬれた屋根ですべり、フィリフヨンカはそのまますべりおちていきました。

 長いおそろしい格闘のあと、ようやく部屋の中にころがりこんで、天井を見ると、いままでそうは見えなかった、ランプのふさやつりかぎが、すばらしくきれいに見えたり、目あたらしい形に見えたりします。へやの中は、どこを見わたしても、すっかり見ちがえるようにかわっていました。

 恐怖のあとの寒けをおさえようと、コーヒーをわかすため、戸だなをひらいたフィリフヨンカは、たくさんのせとものを見て、思います。こんなにたくさんのせとものがあるのに、それを使うのは、たったひとりなんだわ。わたしが死んでしまったら、あとは、だれがつかうのかしら。

 死ぬのなんてとんでもない。わたしは死にっこないんだから。へやの中をあるきまわり、衣装戸だなのスーツケースを見つけて、これからどうすればいいかが、わかってきます。

 よその家をたずねるのです。人に会いにいくのです。一日じゅうおしゃべりをして、ゆかいにさわいで、いそがしく、うちから出たりはいったりして、うすきみのわるいことなんて、かんがえるひまがない人たちに、会いにゆくのです。

<ヘムレンさん>

 ヘムレンさんは、目をさましても、いつもの自分とちっともかわらない自分に、うんざりしています。ベッドの中でぐずぐずしていても、みんなにすかれるヘムレンにも、みんなにきらわれる、かわいそうなヘムレンにも、なれません。どんなに苦心しても、いままでどおり、さっぱりいいめにあえないヘムレンです。毎日同じことをしていると、無意味にすごしているような気がしてきます。

 まわりの人たちは、みんな、気まぐれで、いきあたりばったりなくらしをしています。どちらをむいても、かたづけたり、整頓しなくてはならないようなものばかり目につきます。ヨットがあるのに、自分はあやつることもできません。でも、ヨットを習っているひまなんて、ちっともないんだ…。

 ふいに自分が、朝から晩まで、もののおき場所をかんがえたり、人に、それは、どこにおいたらいいなんてばかりいっているように思えてきます。自分が、なんにもしなくなったらどうなるんだろう。ほかのやつが、また、だれか、せわをやきはじめるだけさ。でも、それだったら、いまのうちに、ヨットにのっておかなくちゃな…。

 ヘムレンさんは、なにがなんだかわからなくなり、みじめな気持ちになりました。考えてはいけないことだってあるんだ。根ほり葉ほり、ほじくって考えるのは、いけないことなんだ。ゆううつな気持ちを、ひと思いにふきとばしてしまえるようなたのしいことは、なにかないかしら。

 考えているうちによみがえってきたのは、ずいぶんむかしにいった、ムーミン谷のこと。南の客間で、朝目をさましたときに、たのしくてたまらなかったことでした。家族の人たちのことは、ぼうっとかすんだようにしかおぼえていないけれど…ほんとうにいい人たちだったなあ。ムーミン谷に出かけるために立ちあがり、歯ブラシをポケットにつっこんだヘムレンさん。気分はすっかりよくなって、いままでとはまるでちがうヘムレンになった気がしました。

<スクルッタおじさん>

 スクルッタおじさんは、きみのわるいくらい年よりで、とてもわすれんぼうです。(自分がわすれたくないものがなにかは、ちゃんと知っています。)ねどこからおき出しもせず、ぼうっとかんがえ、わすれ、ねむったかとおもうと、またおきて、さっぱり自分がだれなのかわかりません。なんの苦労もない、痛快な一日です。夕がたになると、おきだして、自分に名まえをつけます。

 日曜日のたびに、おおぜいの人がおしかけては、帰っていきます。ある日、スクルッタおじさんは、夜どおし窓のしきいにこしをかけ、なにかいいことがありそうな気がして、暗やみをながめていました。しずかに夜のふけていく中で、いったい自分は、なにをしたいと思っているんだろうと、じっと考えていました。夜があけかかるころ、はっと、それがなんだか、わかりました。そうだ、遠いむかしに、いったことのあった、あの谷ヘいってみたいんだ。もしかすると、いったことなんてなかったのかもしれないが、そんなことは、どっちでもいいんだ。あそこなら、橋のふちにこしかけて、じっとながめていられる小川もあるし、だれも、おじさんに、もうねる時間じゃないですか、なんて、うるさくいいません。

 したくてたまらないことは、すこしあいだをおいて、先へのばしたほうがいいことがわかっていたおじさんは、いく日も入り江のまわりの山の中をあてもなく歩きまわりました。朝目がさめると、谷間が近づいてくるように心待ちに待ちながら、さっそくものわすれにとりかかります。

 かごに、くすりと、おなかによくきくブランデーの小びんと、サンドイッチ六きれを入れ、こうもりがさをもって、旅のしたくができあがりました。おじさんのへやには、ながい年月のあいだにたまったものが、海にうかんだ島のようにちらばっていましたが、旅にでかけるときまると、もう、こんなものはいらないや、すてちまおう、という気になりました。ほうきをつかむと、すさまじいいきおいで、へやの中をはきはじめます。できた山の中から、めがねが八つみつかったので、ひろってかごにしまいました。さあ、これから、この目で見るものは、いままでとはまるっきりちがった、新しいものばかりなんだ。

ミムラねえさん>

 ミムラねえさんが、森の中からひょっこりあらわれました。森をまっしぐらにつきぬけてきたのです。とてもじょうきげんです。わたしミムラに生まれて、本当によかったわ。頭のてっぺんから足のつま先まで、とてもいい気持ちだもの。早足でかるがると、秋のけしきの中を歩いていきます。ミムラねえさんは、ずっと前、ムーミンの家に養女にいった、妹のミイに会ってみたくなっていました…。

 あれあれ。ご紹介だけで、こんなにページをつかってしまいました。それぞれがムーミン谷にむかった動機はおわかりいただけたと思いますが…。ムーミン谷にいき、ムーミン一家に会えば、それぞれの問題が解決するはずなのです。ところが、出迎えてくれるはずの、あの楽しい一家は、旅に出てしまっていて不在でした。十一月のムーミン谷の客人たちは、おたがいに期待はずれなきもちで、期待していなかった関係ない人たちと、かかわらざるを得なくなっていきます。

ヘムレンさんは、思いつくことをかたっぱしからしゃべりたて、ホムサは庭の水晶玉に、ムーミン一家のすがたをさがします。ヘムレンさんはムーミンの家の止まっていた時間をうごかそうと、時計と気圧計のねじをまきます。花びんのおみやげをムーミンママにわたせないフィリフヨンカは、がらんとしたうちの、ひんやりとした空気に、やるせない気持ちになります。一家が留守であったことへの不満を、ホムサにぶつけますが、どうなるものでもありません。

 

 ホムサは屋根うらの小べやのウグイあみの中で、電波虫やちびちび虫のことを書いたむずかしい本をよみます。その虫はひとりぼっちだったんだろうな。ホムサのお話の中で、その虫はしだいに異様に成長していきます。

 

 ヘムレンさんとフィリフヨンカはいいあいをします。ミムラねえさんは、みんなのいざこざをよそに、うっとりと髪をとかしています。ヘムレンさんやフィリフヨンカに出迎えられ、うんざりしたのでしょうか、スナフキンは、橋のわきにテンとをはることにしました。でも、しずかなテントの中までも、ヘムレンさんが入りこんできて、話もしたくないのにじゃまをします。

 

 スクルッタおじさんはストーブの中にいるご先祖さまに会いたくてたまりません。 フィリフヨンカは、北むきのへやをあてがわれ、おそうじも料理もできず、なにもかもうまくいかない、みじめな気持ちになります。

  スナフキンは、テントの中でどんなことをしてみても、ほかの連中のまぼろしがテントの中に入ってくるのをとめることができません。ヘムレンさんのおどおどした目つき、ベッドになきふしているフィリフヨンカ、じっと地面ばかり見ているホムサ、とんちんかんなことばかりいうスクルッタおじさん…。

 ぼくは、連中のところへ出かけていかなきゃいけない。思い出してばかりいるよりも、いっしょにいたほうがまだましだ。連中ときたらムーミンたちとは大ちがいだ。ムーミンたちといっしょのときは、自分がひとりになれるんです。いったい、ムーミンたちは、どんなふうにふるまうんだろう、とスナフキンはふしぎに思いました。夏になるたびにいつも、ずっといっしょにすごしていて、そのくせ、ぼくが、ひとりっきりになれたひみつがわからないなんて。

 このスナフキンの考えの流れに、いろいろなことが感じられます。

 やってきた人たちそれぞれの存在のバランスの悪さ。バランスの悪い人たちが、なかば強制的にむすばされた、関係じたいの、不協和音的な居心地の悪さ。不在ゆえに強くたしかめられる、ムーミン一家のたたずまい。

 ふたつのCommunityの対照的なすがたが、スナフキンのことばから、浮かび上がってきます。もとのCommunityは、新しいCommunityを映し出す鏡のようです。新しいCommunityは、テントの中のスナフキンをおいかけ、いらいらさせるのですが、自分がその中に入っていくことでしか、気持ちの悪さをくいとめることはできないようです。

 スナフキンが関係の輪の中に身を投じることを決意して、新しいCommunityがほんとうにスタートします。おたがいのことを好きでなくても、ムーミン一家に会いにこの谷に集まってきたという動機と行為が、関係をむすばせたのです。やってきたからには、かかわらなくてはならないのです。

 このあたり、たんたんとした物語の流れの底に、おそろしく奥深く、真に劇的な感じがあって、ヤンソンさんの思索と構築力のすごさ(といっても、物語はごく自然に生まれ出たものなのでしょうが)に、思わずふうっと息をついてしまいます。

 

 冒頭の神社と同様、とても個人的で、とっぴな思いつきになりますが、わたしはここで、「お通夜」というもののことを考えてしまいました。いなくなった人のために、かかわりのないいろいろな人たちが集まってきて、とりとめのないこと、自分のことなどをしゃべり、それぞれのやり方でいなくなった人のことを強く思い出すという…。 

 ムーミン一家は旅に出ているだけで、失われてしまったわけではありませんが、(ご安心めされよ。物語の終わりで、ホムサが、ムーミンパパの帆柱のカンテラの光を見つけます。)そこにはまるで死のような静けさ、空虚さがただよっているのです。「不在=死」の求心力です。スナフキンが、ムーミンたちのことを思い出しながらも、そのひみつまではたどれないふしぎさも、死者を思い出そうとするのに似ています。十一月という月(季節)にも、(キリスト教の決めごとさしひいても、というのは、ムーミンのシリーズからは、キリスト教的なにおいはいっさい感じられないのですから)どこかしら死のイメージがあるような気がします。

 お通夜にやってきた人たちは、失われたものの生む空虚にむすばれて、期限つきの擬似家族となるとはいえないでしょうか。

 ヘムレンさんは役割を決めたがります。一家のあるじの役をしてみたいようです。また、ヘムレンさんは「ムーミン谷」と書いた立てふだを作ろうとします。ここにやってきた人のためではなく、自分たちのために。自分たちがひとつのCommunityであることを、名まえをしるすことで、確実なものにしようとしているようです。いわば、擬似家族の表札です。もちろんこれは、立てふだぎらいのスナフキンの逆鱗にふれてしまいますけれど。

 ヘムレンさんの声の調子は、いつもと、ちょっと?ほんのちょっと?ちがっていました。いつもより、すこしぞんざいな気がしました。ヘムレンさんは、スナフキンのそばまで、もう近づいていました。するだけの理由はありました。

 スナフキンがいかりをあらわにし、ヘムレンさんが、なにがしかの不服をしめしたことで、スナフキンとヘムレンさんとの関係は、かれらの意志にかかわらず、以前より濃いものになったようです。まきこまれていくことが、人と人との関係なのでしょう。

 ぼくのさがしているのは、おせっかいされないことさ、といって、ムーミンからの手紙を探すスナフキンですが、スクルッタおじさんも、フィリフヨンカも、次々とかれに声をかけ、関係を強制します。客人たちは、いよいよほんとうの家族のようなものになっていきます…。

 

 ♪2♪

 ええっと、たしかヘムレンさんがスナフキンにちょっぴり怒りを示して、スナフキンムーミンたちの手紙を探すところあたりからでしたね。で、お通夜の話をしていたんだった。でも、話がスムーズに続くかどうかはわかりません。この物語はとぉってもポリフォニックなのです。

 むりにまとめにはいることはしないでおこう。(できない、とも言える。)

 後半のひとつの大事な事件は、ホムサが自分の中で育てた動物が、ムーミンたちの洋服ダンスから這い出していくというものです。

─あいつはほんとにいるんだ。ぼくが、いま、あいつを出してやったんだ。

 ホムサは自分が解き放ったものの正体もわからないままに、動物を巨大にしていきます。小さな造物主。空想の箱庭から、現実のムーミン谷に這い出した被造物。

─いなびかりが、ますますはげしくなりました。白く、ぴかり、むらさきに、ぴかり、息つくひまもなくきらめきました。その動物はますます大きくなりました。親も兄弟もいらなくなるくらい、とても大きくなりました…。ここまでお話すると、気持ちのわるいのが、すこしなおってきました。〜ずっと遠くのほうで、かみなりが鳴りました。人が、ほんきでおこりそうになったときの、のどのずっとおくできこえるような音でした。

 傍点のところから、ホムサの「無意識」に、なにがかくれているのか、それがこれからどんな方向に流れていくのかが感じられます。それをこの段階で、ことばで確定してしまうのは、うまくないと思いますが。怒りをこんなふうに大切なモチーフとして扱っている子どもの本を、ほかにあまり見たことがありません。

 

 さて、話はかわって、フィリフヨンカです。ホムサが呼んだかもしれない、本物のかみなりと、虫の気配におびえています。

─どうして、あなた、わたしがきらいなの。どうして、わたしにさせることを、なにか、思いつけないの。

 スナフキンに大声をだしたフィリフヨンカ。他人とぶつかることで、自分の問題がはっきりしてくるようです。ここでおもしろいのは、スナフキンが彼女の要求をちゃんと受けとめていて、巧まずして(あるいはたいへん技巧的に)その成就にむけて、コーディネーターの役割をはたすことです。

─台所におりていけばいいじゃないか。

─虫のやつが、ぜったいにはいってこないところがあるよ。台所なんだ。台所にはぜったいにはいってこないよ。

─おじさんのさかな料理なら、フィリフヨンカが、もってこいだよ。

─ところがね、ヘムレンのやつ、さかなの料理ができるのは、ヘムレンさまだけさ、なんていっているんだ。ほんとうかねえ。

─だけど、きみ、たった一ぴきだけじゃ、みんなにいきわたるように、料理できっこないよね。と、スナフキンはしょげかえっていいました。

─まあ、そう。あなた、そうおもってるの。フィリフヨンカは、そういうが早いか、やにわに、そのいわなをひったくりました。このわたしでも、六人まえに料理ができっこないっていうおさかな、とっくりと見てみたいもんだわ。

 スナフキンというのもよくわからない人ですねえ。おそろしくわがままであばれんぼうなところがあるかと思えば、人を動かすことのこの巧みさはどうでしょう。フィリフヨンカをすっかり情熱的な料理人にしてしまいます。

 そういえば、東宏治さんが「ムーミンパパの手帖」という評論で、スナフキンのことを「すばらしい教育者」と評していました。「教育者」ということば自体、ちょっときもちの悪いところがあって、積極的につかうのははばかられますが、本当の教育者=コーディネーターという意味なら、そのとおりなのでしょう。スナフキンの気まぐれとわがままが「教育者」というものの、もったいぶった、けむたいかんじをうまく排除しているといえるでしょう。

 スナフキンは自由を愛する人ですが、彼自身の望むのとはちがい、こんなふうにコーディネーターになってしまっている以上、ほんとうには自由ではないかもしれません。けっこう屈託や気苦労が感じられる箇所があるのです。その点、ミムラねえさんは行動もことばも、呼吸をするように自然です。その自然さが、「ほんとうのところ」をあばきだします。

(ホムサに)─あなた、くぎぬきするの、きらいなくせに、しているんでしょう。なぜかと思って、ふしぎなのよ。

─おまけに、ヘムレンさんだって、あなたはきらいなんでしょう。(これは、日曜日の昼ごはんの事件で、はっきりします)

(フィリフヨンカに)─食卓をお外にうつしたくらいではね、ムーミンママにはなれないんですからね。

(スクルッタおじさんに)─おじさまは、とても元気だわ。ちっともわるいところなんてないのよ。わたしとおんなじよ。

 かっこいい、ミムラ!! 本人でさえ言語化できずにいること、または、意識のおくに隠していることを、いともかんたんに白日のもとにひきずりだします。でも、そのことで、そのひとを責めたりすることはしません。ただ、客観的に事実を指摘するだけなのです。そして、本人は本人の求めるところをめざします。この自然さが、指摘されたがわにも、いやな感情を起こさせないのでしょう。スクルッタおじさんのパーティの提案に賛成したのも、パーティでおどりたい自分にフィットしたからなのです。

 さて、ミムラねえさんが伝令となって、パ?テイの企画はすすんでいきます。ミムラねえさんがいなければ、パーテイは実現しなかったような気がします。そういえばこのムーミン谷に集まった人々のなかで、ミムラねえさんだけが、問題をかかえていない解放された人でした。スナフキンでさえ、五つの音色をなくし、それを見つけるために、この谷にやってきたのでしたね。

─あした、お台所で、みんなでパーテイをするの。あなた、しらないの?

─とてもいいニュースだわ。知らないものどうしが、漂流して陸にうちあげられたり、大雨や大風で、とじこめられたりしたときには、みんな、そういうパーティをするのよ─そして、パーテイのさいちゅうに、ふっと、ろうそくをけすのよ。すると、もういちど火をつけたときには、みんなの心がしっくりととけあって、ひとりの人みたいになってるの。

 なるほど、なるほど。ここに集まってきたのは、自分の中に、また、他人との関係において「しっくり」ということを感じられないでこまっている人たちでした。フィリフヨンカのいう希望は実現するのでしょうか。

─ヘムレンさんは、そのパーティを、家族の夕べなんてよんでいました。

 不在を中心とする擬似家族の最後の儀式。でも、まだまだ準備が必要なようです。

 ホムサは、パーテイのことで、はしゃぐ気持ちにはなれません。

─それよりも、なぜ、日曜日のお昼ごはんのとき、あんなにひどくはらがたったのか、ひとりっきりで、とっくり考えてみたい気がしていました。まるっきり、いつもの自分とちがう自分が、自分の中からとびだしてきたなんて、ほんとにそらおそろしいことでした。それは自分の知らない人みたいな自分でした。あんな自分が、もういちどあらわれたりしたら、またまた、はずかしい思いをしなくてはなりません。

─どうして、あいつがあんなにしゃくにさわったんだろうと、トフトは、あれこれと考えてみました。なんにも、しゃくにさわることなんてないし、いままでだって、いちども、はらのたったことはなかったんだ。なにかが、むくむくとわいてきて、あふれだして、そうして、ああなっただけなんだ。ぼくは、ほんとは、とてもおとなしいんだ。(個人的に、ここを引用したかったのは、まさに、このホムサそっくりの人を知っているからなのです。)

 ホムサは、スナフキンが尊敬されている理由を考え、ふりかえって自分のことを考えます。

─おそらく、だれのさしずもうけずに、自分のすきなところへいって、とじこもっているからかもしれません。だけど、そんなことはぼくだってしているんだ。でもりっぱだなんて、だれも思ってくれやしない。ぼくがちびすぎるせいだな。

─ただ、しんせつなだけで、ほんとうにすきではないような友だちなら、ほしくないや。それに、自分がいやな思いをしたくないから、しんせつにしているだけの人もいらないや。こわがる人もいやだ。ちっともこわがらない人、人のことを心から心配してくれる人、そうだ、ぼくは、ママがほしいんだ。

 自分にほんとうに必要なものを知るまでにはなんと手間がかかるものなのでしょう。このあとミムラねえさんがホムサの髪をとかしながらいう言葉。

─まあ、あなたなんにもできないんですって。でもさ、とにかく、はらをたてることはできたわね。テーブルの下にもぐりこんでさ、なにもかも、めちゃくちゃにしちまったじゃないの。

 このミムラのせりふには、しびれます。ことがらをそのままに受けとめるところ。こんなふうな全肯定はとってもレベルが高い。技術点、芸術点ともに。

 ここでもうひとつおもしろいことがあります。ミムラムーミンたちについてコメントするところです。

─あの人たちは、ゆううつなとき、はらのたつとき、ひとりになってせいせいしたいときには、うらへいったわ。

─うそっぱちだ、そんなこと。ムーミンたちはおこったことなんてないんだ。

─いっときますけどね。ムーミンパパだってムーミンママだって、ムーミントロールだって、おたがいの顔をみるのもいやになることが、ちょいちょいあるんですからね。

 ここに集まった人たちは、多かれ少なかれ、ムーミン一家を特別視したり、理想としたりしていました。ホムサもムーミンママに特別な思いをいだいています。不在であるがゆえに、幻想の度合は強くなっています。そういう幻想を、ミムラが、いともたやすく、うちくだいてしまうのです。地の文では、ミムラのことばを否定して、ママは、いつだってやさしくて、おこったりしない、と、ことわってありますが、わたしはミムラの言ったことも、本当だと思っています。そして、そのほうがいいのです。みんなにとってもね。

 そして、パーティ。フィリフヨンカが飾りつけと料理をすませ、ヘムレンさんが詩を朗読します。ホムサが電気虫の本を読み、ミムラねえさんは楽しくおどりました。スクルッタおじさんはご先祖さまのことをずっと気にしつづけるので、みんなはご先祖さまのためにばんざいをさけびます。フィリフヨンカの影絵には、みんなが感心しました。「ふるさとへ帰る」という題で、シーツの海をムーミンパパのヨットがすべっていきます。スナフキンのハーモニカが、気がつかないくらいしずかに流れています。パーティを終わらせたのは、ホムサの想像のなかで大きく育ちすぎ、現実のものとなった、あの動物のたてるものおとでした。ホムサはその動物とはじめて対峙します。

─大きくなりすぎちまったんだ。

─あんまり大きくなりすぎて、ひとりでうまくやっていくことができないんだ。

 ホムサは自分でこしらえたものを、自分で収束にむかわせます。大きくなったちびちび虫は、肥大化したエゴででもあったのでしょうか。

 パーティのあと、祝祭のあと、お通夜のあと。

 みんながひきあげてしまうと、あとにのこったフィリフヨンカは、げんなりした気持ちで、台所のまん中に立っていました。なにもかもてんやわんやです。

─いいパーティだったわ。と、フィリフヨンカは、ひとりごとをいいました。…ほんとはフィリフヨンカは、うれしくもないし、うきうきしてもいないし、まして、ちっともくたびれてなんていませんでした。まわりのものは、みんな、じっとしているみたいでした。スナフキンの忘れていったハーモニカを口にあててふいてみます。おもては雨の音だけ。

 最初にきこえる音色が見つかりました。二ばんめは、ひとりでに出てきました。ふしどおり、うまくふけそうになって、するっと、ちょうしはずれになりました。でも、また、もとにもどりました。つまり、感じでふいていけば、しぜんにうまくふけるのです。どうだったっけなんて、あれこれ考えながらふくことはないのです。…どの音色もぴったり、その音色のところにおさまって、もんくのつけようもありません。

 フィリフヨンカは、何時間も、何時間も、食卓にこしかけたまま、感じで音色を追いかけながら、われをわすれて、ハーモニカをふいていました。…フィリフヨンカは、そばに近づきにくいほど、いっしんになってふいていました。心の中は、すっかりやすらかにおちついていました。人がきいていようが、いまいが、もうとんじゃくしませんでした。

 引用が、ばかみたいに長くなってしまいましたが、それはこの部分が、この物語のクライマックスだと、問題がすべてとかれる部分だと、わたしが感じるからなのです。クライマックスをこんなふうに書いたヤンソンさんはすごい人。ここには、音楽のしあわせも、たくみに描きだされています。音楽を自分で演奏する人なら、だれでも、ここに表現された、ここちよい手ごたえのようなものが、感覚的にわかるのではないでしょうか。そして、そういう感覚を通じて、生きるなかで得られる、ひとつの満ち足りた状態を感じることができます。「幸福」などということばは、ここではすこし概念的にすぎるような気がしますね。もっと、てざわりや、肉体的な感覚、内臓からくる感覚をともなったものです。しっくり。

 フィリフヨンカはおそうじ恐怖症からぬけだします。

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 さあてと。このおはなしは、ポリフォニックなので、このあと、ひとりひとりの人物について、問題がとかれてゆくわけですが、(ここまで支離滅裂な文章につきあってくれた人、ありがとおぉぉぉ!!)、わたしもつかれてしまいましたし、やはり、作品をじっさいに読むのがなによりのこととも思いますので、このへんでおしまいにしてしまおう。にげろ、ピュー。言いたいポイントははじめの方で言ってしまったような気もするし。

 なにしろ、今回書いてみて、いよいよすごい作品だということは痛感しました。そのすばらしさを語ろうとすると、けっきょく、ながながと引用するしかないような。下手な解説をつけるよりも、本文を読んでもらうのがいちばんいいような。まあ、すぐれた文学っていうのは、いつもそういうものかもしれませんが。

 現代の人間に必要なのものは、偉大な詩、偉大な比喩、偉大な神話である。と思うことですよ。以上。