ジャン・コクトー 幻視の美学 高橋洋一
- 作者: 高橋洋一
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2003/11/01
- メディア: 新書
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『喜望峰』で詩人として新たな出発をしたコクトーも、「文学」誌をスタートさせたブルトンとその仲間たちも、こうした混沌とした社会、芸術的環境のもとにいたわけであるが、それぞれが志向するものは対極的であった。ブルトンとシュールレアリストたちは、政治の世界と同様に、芸術も自分たちの思うように作り直したいと欲していた。一方、彼にとってそもそも〈現実の政治というものが存在しない〉コクトーは、生まれつつあるこの運動のそうした側面を拒否していた。(中略)ブルトンは、ホモセクシュアルを嫌悪していた。アーサー=キング・ピータースの推察するところでは、コクトーへのブルトンの憎しみは、同性愛への彼の深い嫌悪の念と、コクトーがシュールレアリスムの戦列の先頭に立っていることへの嫉妬と不快感に根ざしていたのである。(ブルトンのコクトーへの憎悪は生涯続き、1960年コクトーが「詩人の王」に推挙されたときも異議申し立てを行った。)シュールレアリスムは、フロイトの深層心理学、アポリネールの詩精神などを拠り所として、意識下の不合理な世界を探求することを目標とした。こうした非現実、無意識、超現実の世界を表現するために〈自動筆記法オートマティスム〉という方法を援用したことでも知られるが、コクトーは、シュールレアリストたちの夢や性衝動についてのフロイト的な深層心理学による解釈を拒絶した。p79
展覧会で、あんなに引きつけられたのは、常に踊ることをやめない線や造形に、下記にあるようなコクトーの存在の仕方が感じられたからだ、多分。
アンドレ・ブルトンを総帥としたシュールレアリストたちとは、激しい芸術上の戦いを繰り広げ、彼らの包囲網をかいくぐりながら、コクトーは〈自分自身という党派〉に到達する。「それは複数者に対する単独者の大いなる、果てしなき闘いなのだが、ますます(単独者にとっては)やっかいなものとなってきている。というのも、世界は一段と非個性化し、大勢は複数者の方へと向かっているからなのだ。」多彩な才能に溢れた、湧き出る泉のごとき〈人脈〉を擁しながら、コクトーは、彼らを一つの党派に束ねることを考えもしなかった。彼らは、コクトーという傑出した〈仕掛人〉のもとに、必要に応じて集合し、離散し、再び集まるという自由な関係を詩人との間に保っていた。p16
この本の最後には「コクトーと三島由紀夫」も付されており、三島のコクトーへの傾倒ぶりが「恐るべき子どもたち」のダルジュロスと「仮面の告白」の近江のかさなりなど、具体的な作品に触れながら解説されていておもしろい。コクトーの死の前後に三島がコクトーに寄せた言葉は、詩人コクトーの本質に迫っているようだった。曰く「軽金属の天使」「いつでも空を飛べるために、彼は身軽である必要があった」「神たるべき鈍重さが欠けていて、天使の役の方が似合った」「自分を神にしようという努力をたびたび試みたが、このほうはたいてい失敗した」
http://d.hatena.ne.jp/amenotorifune/20050504#p2